テクノロジーはまだしばらくの間は、クリティークな主題として問題化され続けるだろう。少なくとも私の世代にとってはそれは、すこしでも考えてみれば、自分の生活実感なり、あるいは人生のあり方や、また日々のパフォーマンスといった些事に至るまで、抜き…
ボラーニョの「2666」、フエンテスの「テラ・ノストラ」、ヤーンの「岸辺なき流れ」、ボレスワフ・プルスの「人形」……おもに中小の出版社から出ている、書棚にみつけた途端に魅了をされてしまう大著というモノがある(このなかではボラーニョの「2666」以外…
小説家になどなったところが何になるのだったか。 実際にはどうなるのか? はれて新人賞を受賞をし、賞金が五十万程度、受賞作が単行本化されて十万二十万程度の印税、以降大体一枚五千円程度の原稿料(源泉徴収で一割抜かれる)で芥川向けの中篇を書かされ…
挨拶をしたうちに教頭のなにがしと云うのが居た。これは文学士だそうだ。文学士と云えば大学の卒業生だからえらい人なんだろう。妙に女のような優しい声を出す人だった。もっとも驚いたのはこの暑いのにフランネルの襯衣を着ている。いくらか薄い地には相違…
保守派の論客として知られる評論家の西部邁(すすむ)さん(78)=東京都世田谷区=が21日、死去した。警視庁田園調布署によると、同日午前6時40分ごろ、東京都大田区田園調布の多摩川河川敷から「川に飛び込んだ人がいる」と110番があった。飛び…
あるとき、彼は患者の胸部に深く注射の針を差しこんだ。苦痛はたいしてないはずだったが、患者は気分が悪くなり、その不快感を説明しようとした。「そこはわたしが生きている場所なんだ。そこに針を差しこまれているんだから」「わかるよ」とササルは言った…
世界社会という概念の意味に疑問を呈するだけの理由は、十分にある。しかし、経済がグローバル化し、政治が国家の枠を超え、世界規模のコミュニケーションが日常的現象となっていることに、疑問の余地はない。だから、私が言いたいのは、こうである。ポスト…
後に日本国の独立をも脅かす存在となる『ゼウスガーデン』の前身『下高井戸オリンピック遊技場』が産声をあげたのは一九八四年九月一日のことである。 この『オリンピック遊技場』なる名称は、いうまでもなく当時アメリカ合衆国で開催されていたロスアンゼル…
かくいう私がその田舎に在住をしているのだが、田舎町では「食べ歩き」が、というよりも食べる、ということが、文化にならないところがある。ここでいう文化というのはつまり、美意識を体現するための食事、それを形成さすための環境が、田舎に存立していな…
伊藤整が好きだった。どんな作家よりも、日本人作家のなかで、優れているのは伊藤整であるとして、ゆるがない。つまりはしょせん、私は、その程度の人間というわけだ。なぜ伊藤整であるのか、については、ゆくゆくここで書く機会もあるだろう。 敬愛する作家…
ジョイス「ユリシーズを」翻訳紹介する、伊藤整について書かれた文章から引く―― 伊藤にとって問題はあくまで「テクニック」であった。伊藤の習作のタイトルでいえば、「感情細胞の断面」を描くことが第一、本質的に何を描くかに関心はなかった。だから『ユリ…
残念なことに、戦争は私たちにとって過去のものではない。かろうじて、昭和末年生まれの私たちの世代にはまだ、昭和と繋がっていた、という感覚があったと思うし、昭和史について、自分で勉強をし、どんな人物が好きであったか、かれこれの事件についてどの…
ロレンスのなかで、作の出来不出来とはべつとして、「ロストガール」にえもいわれぬ思い入れがある。救いのない話が好きなのかもしれない。救いがあるかないかでいえば、それは救いのない話の方がいっけん、「ほんもの」じみてみえるものとして、実際にロレ…
子供ですら、スマートフォンを繰ってそれでゲームを覚え、サブスクをした家のテレビでストリーミングで映画を観、動画サイトやSpotifyで音楽を聴くようになった今、本の位置というのは、どこにあるのであったか。わが身を翻れば、その点、幸福であったのだ。…
曲折、という言葉がある。大体が、いろいろな紆余曲折を経ていまに至る、……というふうに扱われるが、近年の日本文学の新人をチェックしていても、すぐにそれが頓挫をしいられてしまうのは、人間の味といおうか、陰翳といおうか、そのひとがそのひとである以…