本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「震災で一儲けするバカども、ネットで追悼するバカども」「ネットって成長することと相性がわるい」「心的外傷後成長」

三月になるとイライラして、しかたがない。意識的にネットを遮断しないと、ダメだな。 そりゃ私のごときだって、震災の被災者や、ご遺族が、底知れぬおもいを抱えているのを知っているし、毎年、この時季ともなれば傷口がうずくようになるのかもしれない、と…

「小説家ったってしょせん芸人」「新井見枝香とか、クソほど最低」「本屋大賞とか、純然たる、ブラックリスト」

花園神社に詣でてきた。景気がいいネ。花園神社ってったら、芸人が多く参拝する神社だ。なんて話したら、私のかかっているカウンセラーの先生が、ちかくのガッコでスクールカウンセラーしてるんだってさ。 このひとが立派な、頭いいセンセイでね、っていうの…

「嗚呼、フィリップ・シーモア・ホフマン」「一番注目している俳優はね、ポール・ダノ」「デューンの続編、クッソ楽しみ」

冷血 (新潮文庫) 作者:トルーマン カポーティ 新潮社 Amazon カポーティ コレクターズ・エディション [DVD] フィリップ・シーモア・ホフマン Amazon すいません、きょうも酔っ払いのダラダラとした話です(小説を書くのにいそがしい)。 フィリップ・シーモ…

「福島で小説を書くことって可能なのだろうか」

田舎ぐらしってのは退屈だ。無責任なものでね、連れと一軒家を借りて、同居をしたあとに、そんな文学者らしい野放図な、残酷なことを、おもいつくようにできていて、できているんだから、しかたがない。そうでなければ甲斐性もないと、こちとら、おもってし…

「よく選挙とかみんな行けるよなっておもうぜ」「どこの国家もネジが飛んでる国ばっかりだ」「気持ち悪いよな、「多様性」って」

最近、引っ越しをして、そのさいにイタリア製のパイプをなくしてしまった。ちょっとしたものがその代償のようになくなっていったりするから、引っ越しっていうのは困る。まだモンスナックがあったころの、紀伊國屋のちょっとあやしげなあそこの煙草屋で買っ…

「時間性と心中するしかないのが、人文知」「ノンフィクションの書き言葉って、水物のナルシシズムと結託しちゃうんだよ」

「X」(ダッセェ名前だ)のタイムラインに流れてきた猪瀬直樹の古い本の書影をみて、AIだかなんだか、やっている人が、猪瀬直樹を推薦するのかいな、ここらへん、IQが落ちすぎだろう、とおもっていてしまう。 いや、落合陽一さんのことなんだけれど、パ…

「小説を書いている人っていうのは、怖くない」「今書いているものが、かつてなく出来がいい」

手前も散文を書いておいてなんだけれども、小説を書いている人っていうのは、怖くないから、困る。 読書いっぱいしている人も原則的に怖くない、のは物書きなのだからあたりまえなのかもしんない。 基本的に、駄目な人たちだと感じていてしまうのね。 自分で…

「浅草辺の、ボロアパートが舞台でね……」「東北なぁ……」「多様性とかさ、性自認とかさ、ほんとうに薄っすい言葉が……」

新宿で三本たてつづけに映画を観てどれも良かったという話。 「コット はじまりの夏」はいかにもアイルランド、という「毒親」がつくりだす行き場のなさ、どうしようもなさを効果的に作り出しているのだけれども、撮影がいいんだとおもう、三十五ミリのスタ…

一月のひとりごと

「新潮」の浅田彰インタビューに心躍らせる 新潮 2024年02月号 新潮社 Amazon 新しい年(ねん)がはじまって、殊勝に文芸誌などを開いてみると、浅田彰がインタビューを受けていて、さすが新潮は新潮だな、とおもうものがあるのだった。ニューアカといえば、…

ツジコノリコ(Tujiko Noriko)東京公演(渋谷WWW)――カミュの手帖を添えて

それは夢の島であるのよりは真夜中にグロテスクな光の祝宴をもよおす、一種の工場に似ていた。MDの時代にはもう、そしてネット時代になって、浜辺の砂金をかぞえるのよりも途方もない量で殺到する、IDMの音楽たちの話である。たしかに私には、それらの…

「火山の下」書評

この本は読めないといってある現代の歌人の本を投げ出すのはあたりまえにしても、大江健三郎やマルケスが称讃したというラテンアメリカ文学を読めないといって投げ出すのもまだよしとしても、本が読めなくなっているのではないのか、という恐懼にともかく、…

BOOKOFF初売りセール収穫おぼえがき

ブックオフの特殊型の店舗が潰れてしまった。都内にみっつくらいあったのである、江古田と、高田馬場と、あともうひとつは何処だったか……。あれは学生街をねらって設えてあったのですね。壁いちめんが神保町のワゴン並みのクオリティになっていて、裸本に帯…

PTG的な言葉――早川良一郎「散歩が仕事」読了メモ

太宰とか、安吾とか、自意識まわりの小説はとうに流行らない時代になっている。それは、SNSというゴミ箱に放り込まれた、自意識まわりの言葉、ジャンク品としての言葉をだれもがこんにち、見馴れているというのも大きいだろう。近松秋江くらいの芸になら…

小説の終わり(一)芥川龍之介の死における小説の終わり

久米正雄や菊池寛といった身のまわりの友人たちが、ここでは十全に揶揄をされ、実際の追悼文のなかでも彼らは「河童」が戦線を引いた領域のなかにとどまる。稀代のディレッタントとしての芥川龍之介の射程はそこにまで透徹をして届いていた、「河童」を読む…

二十一世紀と小説の終わり(断片、草稿)

十九世紀に興隆をした「小説」は多くの天才たちを世界各地に同時発生的といえる規模で輩出してまもなく(ブロンテ、ディケンズ、バルザック、スタンダール、おくれてドストエフスキー、……)、同世紀のうちにボードレール、ホーフマンスタール、ヴァレリーな…

本をだきしめて(八 最終回)

もちろん私たちはいつまでもそのように混乱をきたしているわけにはいかない。混乱、という言い方を換えれば、青年期の熱量。読書の世界において、みずからの詩情を優しく守ってゆくことは仮にそこにできたとしても、その熱量までをも維持していくことは、ひ…

本をだきしめて(七)

では意識的な選択として、一体私たちはどのような人間であることを、選んでゆくのであっただろうか――私たちは誤ったのだ。根本的な過ちを経た。青年期において、雑多な書物を読んできた私たちは、その選択肢の幅を大幅に拡大してしまう、という過ちを犯した…

本をだきしめて(六)

閑話休題。前々回のつづきとして、書き継いでいくことにするのである。「読書行為」というのは、読書によってみずからを迷宮へといざなっていく行為と相似ており、それは私の陳腐な言い方にならっていえば「地獄」に似た様相を、帯びることもある、という話…

本をだきしめて(五)

けだし、若年期の期間における読書とは、自己の感性の探究、模索にならざるをえない。好き嫌いというのを超えた地点から、みずからのそれでも譲ることのできない文飾とはなにか、共感をよせてやむことのない詩情とはいかなものであったのか、をたえず書物の…

本をだきしめて(四)

資本論はおいておくとして、こうした私の態度はすでにして、当時としては「保守」寄りの態度とみなされるそれであったということは、附言をしておきたく思う。インターテクスチュアリティはナショナリズムと親和性が高い、……というような議論のレベルでもな…

本をだきしめて(三)

そしてその道とは気ちがいの母親からの、逃避行として用意された道でもあっただろう。どうあれ読書行為とは逃避なのでありもしようが、私の場合には、様相を異にしていたのではなかったか。――ともかく、みずからのことを特権化するのは止すとしよう。私が初…

本をだきしめて(二)

私がいまだに「趣味は読書」という言葉に違和感しかもてない、その状態というのをすこしは、垣間見ていただけたのか、とも思うが、結句それはお他人からの納得も、もちろん共感や同情も求めていない、どころか納得されることにも共感されることにもすぐと反…

本をだきしめて(一)

不幸なことに、みずからの半生をつとふりかえってみた時に、趣味は読書です、と言って済ませることのできた期間の、ほんの一期間とてなかった私なのである。もちろん、これからも「趣味は読書」は私の身に起こりうるものではないだろう。ひとは物書きをめざ…

芸と大食(十二 最終回)

ラーメンについて語ることは、避けようではないか。 「らぁ麺やまぐち」 低温調理のチャーシューを発明した天才、「麺処ほん田」が神田に設けた「本田麺業」 錦糸町「佐市」の牡蠣出汁ラーメン。あまり有名ではないが絶品 恵比寿にあった「まちかど」は鯛出…

芸と大食(十一)

さて、神保町にふれておいて、うどん屋さん一軒だけを取り沙汰するのは、本好きとしてあるまじき態度である、といえただろう。なにせうどんはうどんなのだから。そして、なにせ神保町は、神保町なのだから。 この世界有数の古書街についた私たちは、矢口書店…

芸と大食(十)

もののついでに、うどんの話をしてみよう――。蕎麦とはまたことなったヤッカイさがついて回る、のだろうか、うどんというのは……。むずかしくなど考えないでいいものの最たる食べものだ、うどんは。 うどん、というその言葉の時点で、うどんというのはどこか素…

芸と大食(九)

暇があるとどうしてもメゾンエルメスに入ってしまう 東北の地方市街地で蕎麦を食べるということに、どう解決を見出したものだっただろうか。 私がヤッカイなのではない。落語でも聴いていただければわかるとおりの、蕎麦という代物はまごうかたなきヤッカイ…

芸と大食(八)

その話をしたのならば、数寄屋橋付近、泰明小学校を窓からのぞむオーバカナルのパナッシェに、私はふれずにはいられない。 食に親しんできただれもが、酒についての個人的な来歴をもっている。ラーメン店ばかりにかよっているのではないかぎりは、食事をする…

芸と大食(七)

書物が私たちの感じたことのない感覚について教え、世界の広がりを認識させてくれたように、食べものもまた世界の広がりを、認識というともすれば綱渡りのようなものとはことなって、味蕾に直接に、教示をしてくれる。 いまやネパール人のつくるカレーは日本…

芸と大食(六)

実際、バーと古書店が、かろうじて私の二十代を二十代らしく飾ってくれていたものだったと、個人的な体験として、私には回顧される。 そしてそこには、甘いカクテルを注文をするなり私を適切にたしなめてくれる先輩が必要であり、もちろんウォールナット材の…