本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

小説の終わり(一)芥川龍之介の死における小説の終わり

久米正雄や菊池寛といった身のまわりの友人たちが、ここでは十全に揶揄をされ、実際の追悼文のなかでも彼らは「河童」が戦線を引いた領域のなかにとどまる。稀代のディレッタントとしての芥川龍之介の射程はそこにまで透徹をして届いていた、「河童」を読む…

二十一世紀と小説の終わり(断片、草稿)

十九世紀に興隆をした「小説」は多くの天才たちを世界各地に同時発生的といえる規模で輩出してまもなく(ブロンテ、ディケンズ、バルザック、スタンダール、おくれてドストエフスキー、……)、同世紀のうちにボードレール、ホーフマンスタール、ヴァレリーな…

本をだきしめて(八 最終回)

もちろん私たちはいつまでもそのように混乱をきたしているわけにはいかない。混乱、という言い方を換えれば、青年期の熱量。読書の世界において、みずからの詩情を優しく守ってゆくことは仮にそこにできたとしても、その熱量までをも維持していくことは、ひ…

本をだきしめて(七)

では意識的な選択として、一体私たちはどのような人間であることを、選んでゆくのであっただろうか――私たちは誤ったのだ。根本的な過ちを経た。青年期において、雑多な書物を読んできた私たちは、その選択肢の幅を大幅に拡大してしまう、という過ちを犯した…

本をだきしめて(六)

閑話休題。前々回のつづきとして、書き継いでいくことにするのである。「読書行為」というのは、読書によってみずからを迷宮へといざなっていく行為と相似ており、それは私の陳腐な言い方にならっていえば「地獄」に似た様相を、帯びることもある、という話…

本をだきしめて(五)

けだし、若年期の期間における読書とは、自己の感性の探究、模索にならざるをえない。好き嫌いというのを超えた地点から、みずからのそれでも譲ることのできない文飾とはなにか、共感をよせてやむことのない詩情とはいかなものであったのか、をたえず書物の…

本をだきしめて(四)

資本論はおいておくとして、こうした私の態度はすでにして、当時としては「保守」寄りの態度とみなされるそれであったということは、附言をしておきたく思う。インターテクスチュアリティはナショナリズムと親和性が高い、……というような議論のレベルでもな…

本をだきしめて(三)

そしてその道とは気ちがいの母親からの、逃避行として用意された道でもあっただろう。どうあれ読書行為とは逃避なのでありもしようが、私の場合には、様相を異にしていたのではなかったか。――ともかく、みずからのことを特権化するのは止すとしよう。私が初…

本をだきしめて(二)

私がいまだに「趣味は読書」という言葉に違和感しかもてない、その状態というのをすこしは、垣間見ていただけたのか、とも思うが、結句それはお他人からの納得も、もちろん共感や同情も求めていない、どころか納得されることにも共感されることにもすぐと反…

本をだきしめて(一)

不幸なことに、みずからの半生をつとふりかえってみた時に、趣味は読書です、と言って済ませることのできた期間の、ほんの一期間とてなかった私なのである。もちろん、これからも「趣味は読書」は私の身に起こりうるものではないだろう。ひとは物書きをめざ…

芸と大食(十二 最終回)

ラーメンについて語ることは、避けようではないか。 「らぁ麺やまぐち」 低温調理のチャーシューを発明した天才、「麺処ほん田」が神田に設けた「本田麺業」 錦糸町「佐市」の牡蠣出汁ラーメン。あまり有名ではないが絶品 恵比寿にあった「まちかど」は鯛出…

芸と大食(十一)

さて、神保町にふれておいて、うどん屋さん一軒だけを取り沙汰するのは、本好きとしてあるまじき態度である、といえただろう。なにせうどんはうどんなのだから。そして、なにせ神保町は、神保町なのだから。 この世界有数の古書街についた私たちは、矢口書店…

芸と大食(十)

もののついでに、うどんの話をしてみよう――。蕎麦とはまたことなったヤッカイさがついて回る、のだろうか、うどんというのは……。むずかしくなど考えないでいいものの最たる食べものだ、うどんは。 うどん、というその言葉の時点で、うどんというのはどこか素…

芸と大食(九)

暇があるとどうしてもメゾンエルメスに入ってしまう 東北の地方市街地で蕎麦を食べるということに、どう解決を見出したものだっただろうか。 私がヤッカイなのではない。落語でも聴いていただければわかるとおりの、蕎麦という代物はまごうかたなきヤッカイ…

芸と大食(八)

その話をしたのならば、数寄屋橋付近、泰明小学校を窓からのぞむオーバカナルのパナッシェに、私はふれずにはいられない。 食に親しんできただれもが、酒についての個人的な来歴をもっている。ラーメン店ばかりにかよっているのではないかぎりは、食事をする…

芸と大食(七)

書物が私たちの感じたことのない感覚について教え、世界の広がりを認識させてくれたように、食べものもまた世界の広がりを、認識というともすれば綱渡りのようなものとはことなって、味蕾に直接に、教示をしてくれる。 いまやネパール人のつくるカレーは日本…

芸と大食(六)

実際、バーと古書店が、かろうじて私の二十代を二十代らしく飾ってくれていたものだったと、個人的な体験として、私には回顧される。 そしてそこには、甘いカクテルを注文をするなり私を適切にたしなめてくれる先輩が必要であり、もちろんウォールナット材の…

芸と大食(五)

もちろん、「驚き」を求めることが、ともすれば貧乏くさいことであり、却ってせせこましい料簡であるというのは、私は私なりに、知っている。ともすればそれは、飲食店に「特別」を求めるSNS時代の感性と同質のものとみられてしまって、誤解の解きようも…

芸と大食(四)

とんかつは、林SPFという豚肉のロースをとにかく、食いまくる、ということによってとんかつの舌をつくっていった。それは丸五の特ロースを知ったあとのことだった。とりあえずは急ごしらえにそんなことをしておいて、あとは街とともにとんかつを、食べて…

芸と大食(三)

たとえば、一時期、恋人への手土産にすることからはじまって、ロブションのパンばかりをバカみたいに、食べていた時期がある。 泡のようにはじけるクロワッサンの生地。かぎりなく滑らかに上品なクリームの舌どけ。カレーパンの中身の本格的なカリーのスパイ…

芸と大食(二)

つまるところ食を語るとは都市論のかたちを採らざるをえないのだ。もちろん、私は私が食について語る時に、スノッブたりえないことを知っている。私は食について語る時に、みじめな敗残者となる。それは、都市生活者であれず、かつ地方に暮らす人間として意…

芸と大食(一)

私がインスタントのコーヒーを飲むことができなくなってしまったのは、カフェ・ド・ランブルの、あの琥珀色のコーヒーを飲んでからのことである。 そのむかし、パニック障害を起こして、すぐと治してから、コーヒーはインスタントにしてカフェインの摂取量を…

さまたげ(創作)

写真を画くことはむずかしい。ひとつの記憶を鮮明に、ひとつの記憶としてとどめておくようにね。 わかってる、とぼくは言う、それにそこに「とどめておく」をしていられた記憶も、たしかな記憶じゃない。 まったく、ときみは言う。だいじな時代の正確な記憶…

「個とか私はいらない」――ブーバー「忘我の告白」、「ミハーイル・バフチーンの世界」、「解離の舞台」

素朴な疑問なのだが、対話と言い出すひとにかぎって、自己帰属感がひどく薄いのはなんでなのだろう――。と、私がここで念頭においているのは、解離性障害の解離という概念であり、バフチンとマルティン・ブーバーの存在である。バフチンはポリフォニー小説と…

「わがいつはりを噛みくだき」――土屋文明

THA BLUE HERB アーティスト:THA BLUE HERB THA BLUE HERB RECORDINGS Amazon 音楽であれ演芸であれ、スポーツであっても、はじめにみえている世界とは、広大さを有するぶんの困難さを要求をする、広大な、はてしもない広がりそれじたいとなった世界なのであ…

「ぼくの最も嫌いなものは、善意と純情」――中野好夫「悪人礼賛」、西村賢太と佐伯一麦

あらためていうまでもない、ことのはずなのだ。 ぼくの最も嫌いなものは、善意と純情との二つにつきる。 考えてみると、およそ世の中に、善意の善人ほど始末に困るものはないのである。ぼく自身の記憶からいっても、ぼくは善意、純情の善人から、思わぬ迷惑…

「Are you Dead To The World?」(創作)

私自身のための、自己模倣のための習作。 降雨は無視できないほどに勢いを強めたので、新宿の武蔵野館のショップ・コーナーで買った折りたたみ傘をさして、私は新宿駅の西口で時間をつぶすのだ。武蔵野館とは私がこの数年よく通っている、新宿に古くから建つ…

「絶えて人の眼を疲らすことなく」――ボードレール「巴里の憂鬱」

まずだいいちに、しょっぱい世界なんだ、文学ってのは。半世紀ちかくも前だと山田詠美とか村上龍のデビュー作を一万も初版で刷っていたのが、今は規模が十分の一とかになっている。だいたい千部も刷ってくれたらたいそうなもので、そもそも新人賞とって単行…

「このたびの大学闘争は」――高橋和巳「生涯にわたる阿修羅として」、新本格ミステリー

地元で福島翻訳ミステリー読書会、みたいなのをやっている左派イデオロギーにすっぽりとかぶれているおっさんの、読書会に参加したことがあって、あなたにとっての純文学とは何か、という議題になったことがある。私は、真面目に墓参をしている人間として、…

「岩は砂礫となって海に溶け、峰の頂点は青くかすみ、群青の空に融解する」――ウィリアム・マルクス「文人伝」、杉本博司「本家取り 東下り」前期

すべて単純なものは偉大であるという言葉が音楽の方面にはある。それはフルトヴェングラーがベートーベンについて語った時に、もちいた言葉であったとおもう。杉本博司の写真についてどのように語ろうとも、いつものあの、まざまざとした単純さから私たちは…