2023-01-01から1年間の記事一覧
かんだ食堂がなくなってしまったことで、秋葉原という街の顔はまたひとつ、掘りが浅くなってしまった、皺がなくなってノッペリしてしまったよなあ、とおもうわけである。秋葉原自体にはあまり縁故がなく、とはいえ丸五のとんかつはずっとずっと味を落とさず…
テレビはとうぜんインターネットで得られる情報などというものも何等アテにはしていないために、時局にはうとい。その一種の怠け癖にはまた、凝り性であることも一因としてあるのであって、ひとつの時事に半端に首を突っ込むことを、私はうとんじているので…
萌え絵が好きである。あの爬虫類のような瞳で目が描かれた、フリルのたくさんついているようなきわどい衣裳を身につけさせられた、美少女キャラクターたちのことが、である。それは美術と対照にあるものであり、対照にあるものとして適切に世間一般でもあつ…
私が小説家について勉強をするように読むはじまりとなったのが坂口安吾で、それは柄谷行人がハイデガーとならべて称揚をした、という奇妙な文脈にのってのことではなく、彼が「吹雪物語」という小説を書いていたこと、そして今ひとつは彼が毒親そだち、のよ…
すっかりと映画ぐせがついてしまって、武蔵野館のついでに新宿TOHOシネマズと蜜月になるうちに(おもに日比谷にかよっているのだけれども、TOHOシネマズは新宿のも超大型劇場で、夜おそくまでやっているから、いいものである。隣だかのIMAXでぐ…
SNS患者やるのって気持ちいいんだよね。私もイヤイヤその流れに乗ってきた、相応に乗ってこられていたから、わかる。あれはノッている感覚、生活を一定のリズムに差配をされる、アディクションの気持ち良さなわけだ。本当はアル中病棟にいかなきゃなんな…
まじめに遊ぶ事、そのむずかしさたるや、遊びをしながらに常々とかんがえて来ても、精確な手応えとともにそれを知ったつもりになることが、どうしても簡単にはできない。まじめに文章を書くといっても、そのまじめさというのは、堅気の仕事のように見て取り…
われながら、情けないほどの下積み経験をもって文章を書き続けてひとつの岬にたっておもうのは、自分のもっているスタイルで自分のできることが、いかに貧困であるのか、ということだ。それは、自分ができることに達した時に、ひとは自分のできる限界を知り…
食べもの屋を食べあるいていると、悲しい、悲しい、ほんとうにやるせなく悲しくて痛い、身体の痛みとなった瞬間には即座に記憶の痛みとなる、痛みに出くわすことになる。と、そう、書き出してしまえば私の場合に銀座のラーメン店であったり(あのイタリアン…
ペンを手にして、自分を反省したら、なにか確かなもの、わたしにとってのちまで真実であるようなものに達するかどうか。一八三五年ごろ、まだ生きているとして、読みかえしたら、これから書こうとしていることを、自分ながらどう思うだろう。これまでのわた…
ミハイル・バフチンその人というよりも、バフチンの提唱をする「ポリフォニー」の概念にひたすらに興味があって、それはバフチンという提唱者が邪魔におもわれるまでに、拘泥をしてしまう、そうした私の興味のあり方をしているのであった。 音楽を骨董品のよ…
これはのっけから余談だが、萩原健太という、日本でビーチボーイズでありブライアン・ウィルソンを聴いている人士であるのならば、まずゆかりがあるであろう音楽評論家の名前が、ナンシー関の口から出てきて、驚いたのであった。 ナンシー (略)高校生の頃…
親しく読んできたというのにはほど遠いのだったが、田中冬二は地元の詩人であったから、地元の文学館の展示などにふれて、その作品に接する機会をもってきた。そのようにかすかなかたちでふれ、親しく読んできたわけではなかったぶん、印象はいまでも記憶の…
アル中の父親とスキゾの母親の実家からはなれ、一軒家を借りて、凪のような平静の日々を送っている。実際には凪が凪いでいるほどに、大時化である。書かなければならない文章に追われては、自分の文章をつかまえて、のくりかえしで一日、一日をみっちりと埋…
私のラーメンの食べ歩きもなにか得体のしれぬカルマとなっていっていて、都内だけで二百店から三百店へとゆるやかにではあるが、食べついでいる。もともとは文章のために、銀座でミシュランをとったりしていたラーメン店をひたすら食べてみよう、ということ…
現在有料記事部分がないのに有料販売の設定になっております。記事が追加されていくにつれて順次、値上げをしていく予定です。 八月十四日 SNS(X)をやめる。誕生日。恋人と花火をみるなどする。朝方に二枚書く。恋人の友人訪ねて来、その後に駅前へ。…
あのねちっこい歌声が館内にこだましている。いちど耳に飛び込むと、うっかり踏んづけられた靴の裏のガムみたいにしつこくへばりつく、あの安い旋律。 今日の巡業先は、埼玉県東大宮のヘルスセンター。熱唱の二人組は、私と同じプロダクションのシンガー、「…
宇野さんの事を、人間として最も善く出来た田舎者だと僕が言ったら、あれで田舎者に徹したらモット素晴らしい人だったろう、と言った人がある。 青山二郎「鎌倉文士骨董奇譚」 鎌倉文士骨董奇譚 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ) 作者:青山 二郎 講談社 …
短気で、そそっかしく風景を見渡していてしまう。 中尊寺に行った時もそう。 なんにもおぼえちゃいない。 或いは、一部の本を読んでいても、数行を読んでは斜め読みをしていくだけで、この本はどんな性質の本であり、中核の部分にはどんなことが書かれている…
日比谷のドイツ居酒屋でランチを食べたばかりだというのに、「丸香」のうどんを食べさせられて(もちろん私に食べさせられたという意味だ。あの讃岐うどんに私はほんとうに心酔をしているのだ)腹がコチコチの連れとともに、神保町のブックフリマに寄る。国…
どのように怒るのであっても、世界を呪うのであっても、――またはただある事項についてのなにかの説明を成すというのであっても、文章を書くという行為は結句、垂直な祈りに似た行為とならざるをえない。そうあるほかないのだ。いかなごろつきによる、非生産…
どうとでもできない宿業を抱え込んで東京を歩くこと。一体生きている間にどれだけの文字を書き残すことができるのかという宗教的なまでの占いに身をやつし、戦っている、戦ってきたつもりになってそこに生きるほどに、自分はなぜ若かりし日に比して多くを失…
新春の雰囲気といおうか、たたずまいといおうか、そこにつき纏うある種のイメージが、好きである。新春なのであるから、それは清澄なイメージに決まっているのであったが、その清澄なイメージとはしょせんは時計の針によって測られる、人間の愚かな錯覚のご…