本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

日本文学

文学賞を獲って起こったこと――鹿毛雅治編「モチベーションを学ぶ12の理論」、アルフィ・コーン「報酬主義をこえて」、西村賢太「雨滴は続く」

小説家になどなったところが何になるのだったか。 実際にはどうなるのか? はれて新人賞を受賞をし、賞金が五十万程度、受賞作が単行本化されて十万二十万程度の印税、以降大体一枚五千円程度の原稿料(源泉徴収で一割抜かれる)で芥川向けの中篇を書かされ…

「なぜ先生たちは僕たちを人間として扱わないんですか?」――漱石「坊っちゃん」、フランク・マコート「教師人生」

挨拶をしたうちに教頭のなにがしと云うのが居た。これは文学士だそうだ。文学士と云えば大学の卒業生だからえらい人なんだろう。妙に女のような優しい声を出す人だった。もっとも驚いたのはこの暑いのにフランネルの襯衣を着ている。いくらか薄い地には相違…

「これは君の意志のようでいて、君の意志ではない」――小林恭二・京極夏彦・島田雅彦

後に日本国の独立をも脅かす存在となる『ゼウスガーデン』の前身『下高井戸オリンピック遊技場』が産声をあげたのは一九八四年九月一日のことである。 この『オリンピック遊技場』なる名称は、いうまでもなく当時アメリカ合衆国で開催されていたロスアンゼル…

「父の好きな料理を作って感激させたかった」――阿川弘之「食味風々録」、ルース・ライクル「大切なことはすべて食卓で学んだ」

かくいう私がその田舎に在住をしているのだが、田舎町では「食べ歩き」が、というよりも食べる、ということが、文化にならないところがある。ここでいう文化というのはつまり、美意識を体現するための食事、それを形成さすための環境が、田舎に存立していな…

「強く突き上げてくる哄笑」――西村賢太「十二月に泣く」、鬼生田貞雄「黒い羊」

伊藤整が好きだった。どんな作家よりも、日本人作家のなかで、優れているのは伊藤整であるとして、ゆるがない。つまりはしょせん、私は、その程度の人間というわけだ。なぜ伊藤整であるのか、については、ゆくゆくここで書く機会もあるだろう。 敬愛する作家…

「猫でも犬でもわかるとおり、近年高い評価を受けている」――ジョイス・小島信夫・中原昌也

ジョイス「ユリシーズを」翻訳紹介する、伊藤整について書かれた文章から引く―― 伊藤にとって問題はあくまで「テクニック」であった。伊藤の習作のタイトルでいえば、「感情細胞の断面」を描くことが第一、本質的に何を描くかに関心はなかった。だから『ユリ…

「フィクションは、現実を読み解くために必要な鍵を読者に与える」――横光利一「旅愁」、イヴァン・ジャブロンカ「歴史は現代文学である」

残念なことに、戦争は私たちにとって過去のものではない。かろうじて、昭和末年生まれの私たちの世代にはまだ、昭和と繋がっていた、という感覚があったと思うし、昭和史について、自分で勉強をし、どんな人物が好きであったか、かれこれの事件についてどの…

「いつになったら、世間のひとのように」――西村賢太、林芙美子

子供ですら、スマートフォンを繰ってそれでゲームを覚え、サブスクをした家のテレビでストリーミングで映画を観、動画サイトやSpotifyで音楽を聴くようになった今、本の位置というのは、どこにあるのであったか。わが身を翻れば、その点、幸福であったのだ。…

「きっと、こういう味がしたんだろうな」――勝目梓「いつも雑踏の中にいた」、石丸元章「ベルクの風景」

曲折、という言葉がある。大体が、いろいろな紆余曲折を経ていまに至る、……というふうに扱われるが、近年の日本文学の新人をチェックしていても、すぐにそれが頓挫をしいられてしまうのは、人間の味といおうか、陰翳といおうか、そのひとがそのひとである以…

「ホントのことってのと、どうしようもないことっての」――末井昭「素敵なダイナマイトスキャンダル」グ スーヨン「偶然にも最悪な少年」

いまとなってはどうでもいいことだが、私は統合失調症の母親と、アル中の父親のもとに育てられ、小学生時代の教員からは心身にわたる虐待を受けて育った。そのような私は、傷を語ることにはいつでも困難が伴う、とよく知ってきたつもりの私であった。 芸術は…

「病気がちの母は道徳潔癖症でもあるので」――辻仁成・佐伯一麦・西村賢太

最近の新人の小説を読むにつれて日本語というものの一体なんであったのかが、わからなくなっていく。富岡多恵子の「厭芸術浮世草子」に、日本語で書かれた小説があるのならば読みたい、読みたいと常々おもっていて……という一節があったが、私の感懐というの…

「山の手線の電車に跳飛ばされて怪我」――志賀直哉、「トラウマの過去」、「定刻発車」

志賀直哉には今でいうボーダーラインパーソナリティ障害的な気質が、多分にあったのだろう。彼の筆致自体は落ち着いているのが、おもしろい。物事をラベリングするかのように、気分で白か黒かをつけてしまったり、唐突に「キレる」ことをしたりするのだが、…

「この私が祈りを信じているのだろうか」――「春は馬車に乗って」、「天の夕顔」、「妻と私」

「駄目だ、駄目だ、動いちゃ」「苦しい、苦しい」「落ちつけ」「苦しい」「やられるぞ」「うるさい」 彼は楯のように打たれながら、彼女のざらざらした胸を撫で擦った。 しかし、彼はこの苦痛な頂天に於てさえ、妻の健康な時に彼女から与えられた自分の嫉妬…

「かくて彼の人類に対する侮蔑は」――芥川龍之介・ユイスマンス

芥川の全集を経年順に読んでいると、大体「偸盗」あたりでこの作家もここまで成長をしたのかと感心をし、「戯作三昧」になると堂々とした風格に、――作品の善し悪しとはまた別としても――うたれたような感覚になる。と同時に、芥川龍之介がどこまでも芥川龍之…

「人間界の語はそのままここにも応用が出来るのである」――江藤淳、「吾輩は猫である」

漱石の「吾輩は猫である」については、若かりし江藤淳の「夏目漱石」が見事にその本質を捉えている。「猫」を読み、「夏目漱石」を読み、ふたたび「猫」を手に取り、いかに年輪を重ねていこうが論理的にも、感覚的にも、以下のような解釈から私は私の「猫」…

「ああ、ちくしょう、マーティ、こいつらにも見せてやろうぜ!」――サローヤン・ブコウスキー・深沢七郎

枯れているのでも、痩せているのでも、もちろん書き飛ばしているのでもない。謂わば、饒舌になにかを語り、語り尽くしたあとになってから、自らの言葉のうちに原石を掘り当て、さらに研磨をする。語られた内容のうちのほんの最低限度までが残るように、しか…

「百人に近い家族職員、三百三十人に余る患者たち」――坂口安吾、小林秀雄、北杜夫

あくまでも一例なのであるが、日本文学、あるいは構造としての小説、と向き合った時に思いうかぶ、ひとつの作品がある。 夏が来て、あのうらうらと浮く綿のやうな雲を見ると、山岳へ浸らずにはゐられない放浪癖を、凡太は所有してゐた。あの白い雲がうらうら…

「この世にないもの、この世にとうとうありはしなかったもの」――チャンドラー・荷風・矢作俊彦

探偵小説の場において、文飾に凝るという事。 クリスティをはじめとしたいわゆる「ミステリー」畑とも、あるいはロス・マクドナルドやハメットのような「ハードボイルド」路線とも一線を画した、ただ、「散文」をめぐる美的な判断をよすがとして、探偵がさま…

「なんともいえない一種特別の物質」――梶井基次郎と江國香織

私が梶井基次郎の文章でとっさに思いつくのは、「愛撫」冒頭である。ここで、猫は、二葉亭四迷の「平凡」のポチのようにも、漱石の猫のようにも描かれてはいない。全き作家の感性によって猫は捉えられ、籠絡され、しかして他愛ない円環のなかにとどまり続け…

「もっとも確実なもの、つまり直接的なもの」、または離人症者と創造――カミュ「シーシュポスの神話」

アートの起源 作者:杉本 博司 新潮社 Amazon カミュに「不貞」という短篇がある。 夜の浜辺に夫婦ふたりが横になっている。夜空の星辰に思いをはせた妻が、その時にふと、かくのごとく星に惹かれている自らの心の動きこそが「不貞」なのだ、と云いだす。 ひ…