本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

読書

「文明の始まり以来」――「ユナボマー 爆弾魔の狂気」

食事することによってわれわれは自由をかちえている。ほんとうに旨いものと街で、出逢う時に、街がここにあったのだ、やっと街に出逢えたぞという自由さ快活さを感じとり、意気軒昂と世界の片隅を黒いインクで塗りつぶした心づもりになること。太い文字で私…

「大衆食堂の流れを汲む一膳飯屋のこと」――今柊二「ファミリーレストラン」

かんだ食堂がなくなってしまったことで、秋葉原という街の顔はまたひとつ、掘りが浅くなってしまった、皺がなくなってノッペリしてしまったよなあ、とおもうわけである。秋葉原自体にはあまり縁故がなく、とはいえ丸五のとんかつはずっとずっと味を落とさず…

「老ピアニスト」――ウワディスワフ・シュピルマン「戦場のピアニスト」

テレビはとうぜんインターネットで得られる情報などというものも何等アテにはしていないために、時局にはうとい。その一種の怠け癖にはまた、凝り性であることも一因としてあるのであって、ひとつの時事に半端に首を突っ込むことを、私はうとんじているので…

「荒々しい線で絡み合う男女」――池上英洋「官能美術史」

萌え絵が好きである。あの爬虫類のような瞳で目が描かれた、フリルのたくさんついているようなきわどい衣裳を身につけさせられた、美少女キャラクターたちのことが、である。それは美術と対照にあるものであり、対照にあるものとして適切に世間一般でもあつ…

「まあ田舎の平凡な母親」――坂口安吾「おみな」、村上護「安吾風来記」

私が小説家について勉強をするように読むはじまりとなったのが坂口安吾で、それは柄谷行人がハイデガーとならべて称揚をした、という奇妙な文脈にのってのことではなく、彼が「吹雪物語」という小説を書いていたこと、そして今ひとつは彼が毒親そだち、のよ…

「言葉のやりとりがまるでない」――長沢光雄「風俗の人たち」

すっかりと映画ぐせがついてしまって、武蔵野館のついでに新宿TOHOシネマズと蜜月になるうちに(おもに日比谷にかよっているのだけれども、TOHOシネマズは新宿のも超大型劇場で、夜おそくまでやっているから、いいものである。隣だかのIMAXでぐ…

「ふふふと笑う」――山田詠美「放課後の音符」

SNS患者やるのって気持ちいいんだよね。私もイヤイヤその流れに乗ってきた、相応に乗ってこられていたから、わかる。あれはノッている感覚、生活を一定のリズムに差配をされる、アディクションの気持ち良さなわけだ。本当はアル中病棟にいかなきゃなんな…

「虚心に純真に」――藤島武二「画室の言葉」

まじめに遊ぶ事、そのむずかしさたるや、遊びをしながらに常々とかんがえて来ても、精確な手応えとともにそれを知ったつもりになることが、どうしても簡単にはできない。まじめに文章を書くといっても、そのまじめさというのは、堅気の仕事のように見て取り…

「火を、硬い物質を、力を愛する必要」――バシュラール「夢みる権利」

われながら、情けないほどの下積み経験をもって文章を書き続けてひとつの岬にたっておもうのは、自分のもっているスタイルで自分のできることが、いかに貧困であるのか、ということだ。それは、自分ができることに達した時に、ひとは自分のできる限界を知り…

「土地っ子としてのわたしと、ストレンジャーとしてのわたし」――池田弥三郎「銀座十二章」

食べもの屋を食べあるいていると、悲しい、悲しい、ほんとうにやるせなく悲しくて痛い、身体の痛みとなった瞬間には即座に記憶の痛みとなる、痛みに出くわすことになる。と、そう、書き出してしまえば私の場合に銀座のラーメン店であったり(あのイタリアン…

「ことなる心地するにつけても、ただ物のみおぼゆ」――スタンダール「エゴチスムの回想」、ブルーハーブ、建立門院右京大夫、ジャンケレヴィッチ「還らぬ時と郷愁」

ペンを手にして、自分を反省したら、なにか確かなもの、わたしにとってのちまで真実であるようなものに達するかどうか。一八三五年ごろ、まだ生きているとして、読みかえしたら、これから書こうとしていることを、自分ながらどう思うだろう。これまでのわた…

「言語をうっちゃってしまい、物をそっくりそのまま使って話しを交そうとするあの連中」――ゲイブリエル・ジョンポヴィッチ「書くことと肉体」、ヤコブソン「音と意味についての六章」、V.K.ジュラヴリョフ「言語学は何の役に立つか」

ミハイル・バフチンその人というよりも、バフチンの提唱をする「ポリフォニー」の概念にひたすらに興味があって、それはバフチンという提唱者が邪魔におもわれるまでに、拘泥をしてしまう、そうした私の興味のあり方をしているのであった。 音楽を骨董品のよ…

「なんか知っちゃった」――リリー・フランキー/ナンシー関「小さなスナック」

これはのっけから余談だが、萩原健太という、日本でビーチボーイズでありブライアン・ウィルソンを聴いている人士であるのならば、まずゆかりがあるであろう音楽評論家の名前が、ナンシー関の口から出てきて、驚いたのであった。 ナンシー (略)高校生の頃…

「抒情的な自由詩系統の作風は流行遅れになりかかって」――伊藤整「若い詩人の肖像」、田中冬二「子の山行の思い出」

親しく読んできたというのにはほど遠いのだったが、田中冬二は地元の詩人であったから、地元の文学館の展示などにふれて、その作品に接する機会をもってきた。そのようにかすかなかたちでふれ、親しく読んできたわけではなかったぶん、印象はいまでも記憶の…

「お前はお前でそこで枯れるのだ」――ヘッセ「庭仕事の愉しみ」、蓮池歓一「伊藤整―文学と生活の断面―」

アル中の父親とスキゾの母親の実家からはなれ、一軒家を借りて、凪のような平静の日々を送っている。実際には凪が凪いでいるほどに、大時化である。書かなければならない文章に追われては、自分の文章をつかまえて、のくりかえしで一日、一日をみっちりと埋…

「飲食店というものは、なにを売ってもよいのだ」――茂出木心護「洋食や」

私のラーメンの食べ歩きもなにか得体のしれぬカルマとなっていっていて、都内だけで二百店から三百店へとゆるやかにではあるが、食べついでいる。もともとは文章のために、銀座でミシュランをとったりしていたラーメン店をひたすら食べてみよう、ということ…

「ほんの少しましな思想」――末永直海「百円シンガー極楽天使」、吉本ばなな「キッチン」

あのねちっこい歌声が館内にこだましている。いちど耳に飛び込むと、うっかり踏んづけられた靴の裏のガムみたいにしつこくへばりつく、あの安い旋律。 今日の巡業先は、埼玉県東大宮のヘルスセンター。熱唱の二人組は、私と同じプロダクションのシンガー、「…

「人生の方は我々がどこへ行っても、いやでもついてくる」――吉田健一「続 酒肴酒」

宇野さんの事を、人間として最も善く出来た田舎者だと僕が言ったら、あれで田舎者に徹したらモット素晴らしい人だったろう、と言った人がある。 青山二郎「鎌倉文士骨董奇譚」 鎌倉文士骨董奇譚 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ) 作者:青山 二郎 講談社 …

「眼と視力は人格の中心であるという考えかた」――日高敏隆「春の数えかた」、ゴンザレス=クルッシ「五つの感覚」

短気で、そそっかしく風景を見渡していてしまう。 中尊寺に行った時もそう。 なんにもおぼえちゃいない。 或いは、一部の本を読んでいても、数行を読んでは斜め読みをしていくだけで、この本はどんな性質の本であり、中核の部分にはどんなことが書かれている…

「書くことは苦しいが、それ以上に創り出すことはもっと苦しい」――出久根達郎「古書法楽」、ジャネット・ウィンターソン「灯台守の話」、野口冨士男「誄歌」

日比谷のドイツ居酒屋でランチを食べたばかりだというのに、「丸香」のうどんを食べさせられて(もちろん私に食べさせられたという意味だ。あの讃岐うどんに私はほんとうに心酔をしているのだ)腹がコチコチの連れとともに、神保町のブックフリマに寄る。国…

「真に偉大な作家は、ものを書こうと欲しない」――ウィリアム・ジンサー「誰よりも、うまく書く」、ヘンリー・ミラー「薔薇色の十字架 セクサス」

どのように怒るのであっても、世界を呪うのであっても、――またはただある事項についてのなにかの説明を成すというのであっても、文章を書くという行為は結句、垂直な祈りに似た行為とならざるをえない。そうあるほかないのだ。いかなごろつきによる、非生産…

「実際は、決して、そのような希望が満たされることはないのだ」――伊藤整「新しい一年」

新春の雰囲気といおうか、たたずまいといおうか、そこにつき纏うある種のイメージが、好きである。新春なのであるから、それは清澄なイメージに決まっているのであったが、その清澄なイメージとはしょせんは時計の針によって測られる、人間の愚かな錯覚のご…

「沈丁花の香が僅かに」――檀ふみ「どうもいたしません」、伊藤マリ「帰らない日へ」

近代文学というか、日本における近代国家のはじまりは言文一致運動とともにあった(こうざっくり言ってしまうと近代史家に怒られるのかもしれないが)。近代国家の創設と連動をして国語運動が興るのはなにも日本にかぎったことではなく、ドイツではグリム兄…

「私のせいじゃない」――高見順「悪女礼賛」、岡田尊司「愛着障害」、川端康成「みづうみ」

離人症者として現実感を喪失しているため、また虐待等の既往があるため(基本的信頼感の欠如というタームがある)、ひとに、恋愛の感情をどうも抱くことができていない。どうも私にはそれができないらしいのだ。昔はそれがあった筈なのが今こそそれが、手に…

「バルト自身のスタンダールへの道」――西川長夫「ミラノの人 スタンダール」、スタンダール「イタリア紀行」

ヌーヴォ・ロマンの極北を「人生 使用法」であると思っている――今回、その小説に踏み込むつもりはないのであるが。 人生 使用法 作者:ジョルジュ ペレック 水声社 Amazon 十九世紀的な小説をいかにして現代において、分析をするかにロラン・バルトの「S/Z…

「くだけたガラスをわたる風の跫音」――エリオット「荒地」、島尾ミホ「海辺の生と死」、ピーター・アクロイド「T・S・エリオット」

四月はいちばん無情な月 死んだ土地からライラックを育てあげ 記憶と欲望とを混ぜあわし 精のない草木の根元を春の雨で掻きおこす。T・S・エリオット「荒地」深瀬基寛訳 荒地 (岩波文庫) 作者:T.S.エリオット 岩波書店 Amazon 統合失調症の母が二年前、脳…

「一種のはじらい」――ジャンケレヴィッチ「死」、末井昭「自殺」

死がわれわれのうちに呼びおこす一種のはじらいは、大部分、この死の瞬間は考えることも語ることもできないという性格に由来している。生物としての連続に一種のはじらいがあるように、越経験な停止にも一つのはじらいがあるのだ。定期的な欲求の反復がなに…

「ゆきあたりばったりな旅」――壇一雄「漂蕩の自由」、金子光晴「どくろ杯」

私は芸術というものに対して何の定見も持ち合わせていない。正直の話、あやまって文芸の世界などにまぎれ込んでしまっただけのことで、「無能無才にしてこの一筋につながる……」という程の煎じつめた気概もない。 ただ、私にあるものはどう処理もしようのない…

「今この地においてほど」――ゲーテ「イタリア紀行」

ゲーテは不愉快になり、次第にワイマルで生活するのを厭わしく思うようになってくる。公爵は軍務に服したくていらいらしている。公爵のこの戦争意欲は皮膚の下の「疥癬」のようにうずいていると、ゲーテは言っている。政治の仕事は退屈になってしまった。恋…

「柔らかい穏やかな光の地帯」――サガン、アンドレ・モーロワ

ものうさと甘さがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しい、りっぱな名をつけようか、私は迷う。その感情はあまりにも自分のことだけにかまけ、利己主義な感情であり、私はそれをほとんど恥じている。ところが、悲しみはいつも高尚な…