本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

読書

ツジコノリコ(Tujiko Noriko)東京公演(渋谷WWW)――カミュの手帖を添えて

それは夢の島であるのよりは真夜中にグロテスクな光の祝宴をもよおす、一種の工場に似ていた。MDの時代にはもう、そしてネット時代になって、浜辺の砂金をかぞえるのよりも途方もない量で殺到する、IDMの音楽たちの話である。たしかに私には、それらの…

「火山の下」書評

この本は読めないといってある現代の歌人の本を投げ出すのはあたりまえにしても、大江健三郎やマルケスが称讃したというラテンアメリカ文学を読めないといって投げ出すのもまだよしとしても、本が読めなくなっているのではないのか、という恐懼にともかく、…

BOOKOFF初売りセール収穫おぼえがき

ブックオフの特殊型の店舗が潰れてしまった。都内にみっつくらいあったのである、江古田と、高田馬場と、あともうひとつは何処だったか……。あれは学生街をねらって設えてあったのですね。壁いちめんが神保町のワゴン並みのクオリティになっていて、裸本に帯…

PTG的な言葉――早川良一郎「散歩が仕事」読了メモ

太宰とか、安吾とか、自意識まわりの小説はとうに流行らない時代になっている。それは、SNSというゴミ箱に放り込まれた、自意識まわりの言葉、ジャンク品としての言葉をだれもがこんにち、見馴れているというのも大きいだろう。近松秋江くらいの芸になら…

芸と大食(四)

とんかつは、林SPFという豚肉のロースをとにかく、食いまくる、ということによってとんかつの舌をつくっていった。それは丸五の特ロースを知ったあとのことだった。とりあえずは急ごしらえにそんなことをしておいて、あとは街とともにとんかつを、食べて…

芸と大食(二)

つまるところ食を語るとは都市論のかたちを採らざるをえないのだ。もちろん、私は私が食について語る時に、スノッブたりえないことを知っている。私は食について語る時に、みじめな敗残者となる。それは、都市生活者であれず、かつ地方に暮らす人間として意…

芸と大食(一)

私がインスタントのコーヒーを飲むことができなくなってしまったのは、カフェ・ド・ランブルの、あの琥珀色のコーヒーを飲んでからのことである。 そのむかし、パニック障害を起こして、すぐと治してから、コーヒーはインスタントにしてカフェインの摂取量を…

「個とか私はいらない」――ブーバー「忘我の告白」、「ミハーイル・バフチーンの世界」、「解離の舞台」

素朴な疑問なのだが、対話と言い出すひとにかぎって、自己帰属感がひどく薄いのはなんでなのだろう――。と、私がここで念頭においているのは、解離性障害の解離という概念であり、バフチンとマルティン・ブーバーの存在である。バフチンはポリフォニー小説と…

「わがいつはりを噛みくだき」――土屋文明

THA BLUE HERB アーティスト:THA BLUE HERB THA BLUE HERB RECORDINGS Amazon 音楽であれ演芸であれ、スポーツであっても、はじめにみえている世界とは、広大さを有するぶんの困難さを要求をする、広大な、はてしもない広がりそれじたいとなった世界なのであ…

「ぼくの最も嫌いなものは、善意と純情」――中野好夫「悪人礼賛」、西村賢太と佐伯一麦

あらためていうまでもない、ことのはずなのだ。 ぼくの最も嫌いなものは、善意と純情との二つにつきる。 考えてみると、およそ世の中に、善意の善人ほど始末に困るものはないのである。ぼく自身の記憶からいっても、ぼくは善意、純情の善人から、思わぬ迷惑…

「絶えて人の眼を疲らすことなく」――ボードレール「巴里の憂鬱」

まずだいいちに、しょっぱい世界なんだ、文学ってのは。半世紀ちかくも前だと山田詠美とか村上龍のデビュー作を一万も初版で刷っていたのが、今は規模が十分の一とかになっている。だいたい千部も刷ってくれたらたいそうなもので、そもそも新人賞とって単行…

「このたびの大学闘争は」――高橋和巳「生涯にわたる阿修羅として」、新本格ミステリー

地元で福島翻訳ミステリー読書会、みたいなのをやっている左派イデオロギーにすっぽりとかぶれているおっさんの、読書会に参加したことがあって、あなたにとっての純文学とは何か、という議題になったことがある。私は、真面目に墓参をしている人間として、…

「岩は砂礫となって海に溶け、峰の頂点は青くかすみ、群青の空に融解する」――ウィリアム・マルクス「文人伝」、杉本博司「本家取り 東下り」前期

すべて単純なものは偉大であるという言葉が音楽の方面にはある。それはフルトヴェングラーがベートーベンについて語った時に、もちいた言葉であったとおもう。杉本博司の写真についてどのように語ろうとも、いつものあの、まざまざとした単純さから私たちは…

「文明の始まり以来」――「ユナボマー 爆弾魔の狂気」

食事することによってわれわれは自由をかちえている。ほんとうに旨いものと街で、出逢う時に、街がここにあったのだ、やっと街に出逢えたぞという自由さ快活さを感じとり、意気軒昂と世界の片隅を黒いインクで塗りつぶした心づもりになること。太い文字で私…

「大衆食堂の流れを汲む一膳飯屋のこと」――今柊二「ファミリーレストラン」

かんだ食堂がなくなってしまったことで、秋葉原という街の顔はまたひとつ、掘りが浅くなってしまった、皺がなくなってノッペリしてしまったよなあ、とおもうわけである。秋葉原自体にはあまり縁故がなく、とはいえ丸五のとんかつはずっとずっと味を落とさず…

「老ピアニスト」――ウワディスワフ・シュピルマン「戦場のピアニスト」

テレビはとうぜんインターネットで得られる情報などというものも何等アテにはしていないために、時局にはうとい。その一種の怠け癖にはまた、凝り性であることも一因としてあるのであって、ひとつの時事に半端に首を突っ込むことを、私はうとんじているので…

「荒々しい線で絡み合う男女」――池上英洋「官能美術史」

萌え絵が好きである。あの爬虫類のような瞳で目が描かれた、フリルのたくさんついているようなきわどい衣裳を身につけさせられた、美少女キャラクターたちのことが、である。それは美術と対照にあるものであり、対照にあるものとして適切に世間一般でもあつ…

「まあ田舎の平凡な母親」――坂口安吾「おみな」、村上護「安吾風来記」

私が小説家について勉強をするように読むはじまりとなったのが坂口安吾で、それは柄谷行人がハイデガーとならべて称揚をした、という奇妙な文脈にのってのことではなく、彼が「吹雪物語」という小説を書いていたこと、そして今ひとつは彼が毒親そだち、のよ…

「言葉のやりとりがまるでない」――長沢光雄「風俗の人たち」

すっかりと映画ぐせがついてしまって、武蔵野館のついでに新宿TOHOシネマズと蜜月になるうちに(おもに日比谷にかよっているのだけれども、TOHOシネマズは新宿のも超大型劇場で、夜おそくまでやっているから、いいものである。隣だかのIMAXでぐ…

「ふふふと笑う」――山田詠美「放課後の音符」

SNS患者やるのって気持ちいいんだよね。私もイヤイヤその流れに乗ってきた、相応に乗ってこられていたから、わかる。あれはノッている感覚、生活を一定のリズムに差配をされる、アディクションの気持ち良さなわけだ。本当はアル中病棟にいかなきゃなんな…

「虚心に純真に」――藤島武二「画室の言葉」

まじめに遊ぶ事、そのむずかしさたるや、遊びをしながらに常々とかんがえて来ても、精確な手応えとともにそれを知ったつもりになることが、どうしても簡単にはできない。まじめに文章を書くといっても、そのまじめさというのは、堅気の仕事のように見て取り…

「火を、硬い物質を、力を愛する必要」――バシュラール「夢みる権利」

われながら、情けないほどの下積み経験をもって文章を書き続けてひとつの岬にたっておもうのは、自分のもっているスタイルで自分のできることが、いかに貧困であるのか、ということだ。それは、自分ができることに達した時に、ひとは自分のできる限界を知り…

「土地っ子としてのわたしと、ストレンジャーとしてのわたし」――池田弥三郎「銀座十二章」

食べもの屋を食べあるいていると、悲しい、悲しい、ほんとうにやるせなく悲しくて痛い、身体の痛みとなった瞬間には即座に記憶の痛みとなる、痛みに出くわすことになる。と、そう、書き出してしまえば私の場合に銀座のラーメン店であったり(あのイタリアン…

「ことなる心地するにつけても、ただ物のみおぼゆ」――スタンダール「エゴチスムの回想」、ブルーハーブ、建立門院右京大夫、ジャンケレヴィッチ「還らぬ時と郷愁」

ペンを手にして、自分を反省したら、なにか確かなもの、わたしにとってのちまで真実であるようなものに達するかどうか。一八三五年ごろ、まだ生きているとして、読みかえしたら、これから書こうとしていることを、自分ながらどう思うだろう。これまでのわた…

「言語をうっちゃってしまい、物をそっくりそのまま使って話しを交そうとするあの連中」――ゲイブリエル・ジョンポヴィッチ「書くことと肉体」、ヤコブソン「音と意味についての六章」、V.K.ジュラヴリョフ「言語学は何の役に立つか」

ミハイル・バフチンその人というよりも、バフチンの提唱をする「ポリフォニー」の概念にひたすらに興味があって、それはバフチンという提唱者が邪魔におもわれるまでに、拘泥をしてしまう、そうした私の興味のあり方をしているのであった。 音楽を骨董品のよ…

「なんか知っちゃった」――リリー・フランキー/ナンシー関「小さなスナック」

これはのっけから余談だが、萩原健太という、日本でビーチボーイズでありブライアン・ウィルソンを聴いている人士であるのならば、まずゆかりがあるであろう音楽評論家の名前が、ナンシー関の口から出てきて、驚いたのであった。 ナンシー (略)高校生の頃…

「抒情的な自由詩系統の作風は流行遅れになりかかって」――伊藤整「若い詩人の肖像」、田中冬二「子の山行の思い出」

親しく読んできたというのにはほど遠いのだったが、田中冬二は地元の詩人であったから、地元の文学館の展示などにふれて、その作品に接する機会をもってきた。そのようにかすかなかたちでふれ、親しく読んできたわけではなかったぶん、印象はいまでも記憶の…

「お前はお前でそこで枯れるのだ」――ヘッセ「庭仕事の愉しみ」、蓮池歓一「伊藤整―文学と生活の断面―」

アル中の父親とスキゾの母親の実家からはなれ、一軒家を借りて、凪のような平静の日々を送っている。実際には凪が凪いでいるほどに、大時化である。書かなければならない文章に追われては、自分の文章をつかまえて、のくりかえしで一日、一日をみっちりと埋…

「飲食店というものは、なにを売ってもよいのだ」――茂出木心護「洋食や」

私のラーメンの食べ歩きもなにか得体のしれぬカルマとなっていっていて、都内だけで二百店から三百店へとゆるやかにではあるが、食べついでいる。もともとは文章のために、銀座でミシュランをとったりしていたラーメン店をひたすら食べてみよう、ということ…

「ほんの少しましな思想」――末永直海「百円シンガー極楽天使」、吉本ばなな「キッチン」

あのねちっこい歌声が館内にこだましている。いちど耳に飛び込むと、うっかり踏んづけられた靴の裏のガムみたいにしつこくへばりつく、あの安い旋律。 今日の巡業先は、埼玉県東大宮のヘルスセンター。熱唱の二人組は、私と同じプロダクションのシンガー、「…