読書
新春の雰囲気といおうか、たたずまいといおうか、そこにつき纏うある種のイメージが、好きである。新春なのであるから、それは清澄なイメージに決まっているのであったが、その清澄なイメージとはしょせんは時計の針によって測られる、人間の愚かな錯覚のご…
近代文学というか、日本における近代国家のはじまりは言文一致運動とともにあった(こうざっくり言ってしまうと近代史家に怒られるのかもしれないが)。近代国家の創設と連動をして国語運動が興るのはなにも日本にかぎったことではなく、ドイツではグリム兄…
離人症者として現実感を喪失しているため、また虐待等の既往があるため(基本的信頼感の欠如というタームがある)、ひとに、恋愛の感情をどうも抱くことができていない。どうも私にはそれができないらしいのだ。昔はそれがあった筈なのが今こそそれが、手に…
ヌーヴォ・ロマンの極北を「人生 使用法」であると思っている――今回、その小説に踏み込むつもりはないのであるが。 人生 使用法 作者:ジョルジュ ペレック 水声社 Amazon 十九世紀的な小説をいかにして現代において、分析をするかにロラン・バルトの「S/Z…
四月はいちばん無情な月 死んだ土地からライラックを育てあげ 記憶と欲望とを混ぜあわし 精のない草木の根元を春の雨で掻きおこす。T・S・エリオット「荒地」深瀬基寛訳 荒地 (岩波文庫) 作者:T.S.エリオット 岩波書店 Amazon 統合失調症の母が二年前、脳…
死がわれわれのうちに呼びおこす一種のはじらいは、大部分、この死の瞬間は考えることも語ることもできないという性格に由来している。生物としての連続に一種のはじらいがあるように、越経験な停止にも一つのはじらいがあるのだ。定期的な欲求の反復がなに…
私は芸術というものに対して何の定見も持ち合わせていない。正直の話、あやまって文芸の世界などにまぎれ込んでしまっただけのことで、「無能無才にしてこの一筋につながる……」という程の煎じつめた気概もない。 ただ、私にあるものはどう処理もしようのない…
ゲーテは不愉快になり、次第にワイマルで生活するのを厭わしく思うようになってくる。公爵は軍務に服したくていらいらしている。公爵のこの戦争意欲は皮膚の下の「疥癬」のようにうずいていると、ゲーテは言っている。政治の仕事は退屈になってしまった。恋…
ものうさと甘さがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しい、りっぱな名をつけようか、私は迷う。その感情はあまりにも自分のことだけにかまけ、利己主義な感情であり、私はそれをほとんど恥じている。ところが、悲しみはいつも高尚な…
谷崎潤一郎の文章に不感症である。 官能的な色や、感触ではない、ただ散文的な印象をどの小説からも受け取ってしまうのだ。 十七歳かそこいらで「細雪」を読んでいたことも、その一因であったかもしれない――近所に学校があり、そこで学生らが華やかに声を上…
恋人にモノでも贈ろうかと銀座の街をふらつくが、宝飾店に入るほどの大上段の心意気でもない。室生犀星が書いている、「女の人にものをおくるということは、たいへん嬉しいものである」(「随筆 女ひと」)というような得手勝手な欲求を、みたす分だけのほん…
今、僕は語ろうと思う。 もちろん問題は何ひとつ解決してはいないし、語り終えた時点でもあるいは事態は全く同じということになるかもしれない。結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎないからだ。 …
ハコでは爆音に曝され、宅では新音源をヘッドフォーンを用いて大音量で一日に百も聴く習慣があるため、左耳に軽度の難聴をもっている。よく人の言うことを聞き返すし、すこし声を張っただけのつもりが、大分おおきな声で発声をしていたのだとあとで知り、顔…
日本の純文学、といった時、ステレオタイプとして連想される性質の文章をひとつ、引いてみよう。この場合ステレオタイプに過ぎる、のであったが。 彼は剥げた一閑張の小机を、竹垣ごしに狹い通りに向いた窓際に据ゑた。その低い、朽つて白く黴の生えた窓庇と…
美術館で絵を眺めているうち、カタルシスに浴し慣れたためもあってか、あるいは銀座で画廊めぐりなどしているうちに「どうせ手に入らない絵なのだから……」という要らぬ自意識を身につけたせいか、――それでも結句美術館がよいは止めることはできないのであっ…
テクノロジーはまだしばらくの間は、クリティークな主題として問題化され続けるだろう。少なくとも私の世代にとってはそれは、すこしでも考えてみれば、自分の生活実感なり、あるいは人生のあり方や、また日々のパフォーマンスといった些事に至るまで、抜き…
ボラーニョの「2666」、フエンテスの「テラ・ノストラ」、ヤーンの「岸辺なき流れ」、ボレスワフ・プルスの「人形」……おもに中小の出版社から出ている、書棚にみつけた途端に魅了をされてしまう大著というモノがある(このなかではボラーニョの「2666」以外…
小説家になどなったところが何になるのだったか。 実際にはどうなるのか? はれて新人賞を受賞をし、賞金が五十万程度、受賞作が単行本化されて十万二十万程度の印税、以降大体一枚五千円程度の原稿料(源泉徴収で一割抜かれる)で芥川向けの中篇を書かされ…
挨拶をしたうちに教頭のなにがしと云うのが居た。これは文学士だそうだ。文学士と云えば大学の卒業生だからえらい人なんだろう。妙に女のような優しい声を出す人だった。もっとも驚いたのはこの暑いのにフランネルの襯衣を着ている。いくらか薄い地には相違…
保守派の論客として知られる評論家の西部邁(すすむ)さん(78)=東京都世田谷区=が21日、死去した。警視庁田園調布署によると、同日午前6時40分ごろ、東京都大田区田園調布の多摩川河川敷から「川に飛び込んだ人がいる」と110番があった。飛び…
あるとき、彼は患者の胸部に深く注射の針を差しこんだ。苦痛はたいしてないはずだったが、患者は気分が悪くなり、その不快感を説明しようとした。「そこはわたしが生きている場所なんだ。そこに針を差しこまれているんだから」「わかるよ」とササルは言った…
世界社会という概念の意味に疑問を呈するだけの理由は、十分にある。しかし、経済がグローバル化し、政治が国家の枠を超え、世界規模のコミュニケーションが日常的現象となっていることに、疑問の余地はない。だから、私が言いたいのは、こうである。ポスト…
後に日本国の独立をも脅かす存在となる『ゼウスガーデン』の前身『下高井戸オリンピック遊技場』が産声をあげたのは一九八四年九月一日のことである。 この『オリンピック遊技場』なる名称は、いうまでもなく当時アメリカ合衆国で開催されていたロスアンゼル…
かくいう私がその田舎に在住をしているのだが、田舎町では「食べ歩き」が、というよりも食べる、ということが、文化にならないところがある。ここでいう文化というのはつまり、美意識を体現するための食事、それを形成さすための環境が、田舎に存立していな…
伊藤整が好きだった。どんな作家よりも、日本人作家のなかで、優れているのは伊藤整であるとして、ゆるがない。つまりはしょせん、私は、その程度の人間というわけだ。なぜ伊藤整であるのか、については、ゆくゆくここで書く機会もあるだろう。 敬愛する作家…
ジョイス「ユリシーズを」翻訳紹介する、伊藤整について書かれた文章から引く―― 伊藤にとって問題はあくまで「テクニック」であった。伊藤の習作のタイトルでいえば、「感情細胞の断面」を描くことが第一、本質的に何を描くかに関心はなかった。だから『ユリ…
残念なことに、戦争は私たちにとって過去のものではない。かろうじて、昭和末年生まれの私たちの世代にはまだ、昭和と繋がっていた、という感覚があったと思うし、昭和史について、自分で勉強をし、どんな人物が好きであったか、かれこれの事件についてどの…
ロレンスのなかで、作の出来不出来とはべつとして、「ロストガール」にえもいわれぬ思い入れがある。救いのない話が好きなのかもしれない。救いがあるかないかでいえば、それは救いのない話の方がいっけん、「ほんもの」じみてみえるものとして、実際にロレ…
子供ですら、スマートフォンを繰ってそれでゲームを覚え、サブスクをした家のテレビでストリーミングで映画を観、動画サイトやSpotifyで音楽を聴くようになった今、本の位置というのは、どこにあるのであったか。わが身を翻れば、その点、幸福であったのだ。…
曲折、という言葉がある。大体が、いろいろな紆余曲折を経ていまに至る、……というふうに扱われるが、近年の日本文学の新人をチェックしていても、すぐにそれが頓挫をしいられてしまうのは、人間の味といおうか、陰翳といおうか、そのひとがそのひとである以…