本とgekijou

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「ベイビー・ブローカー」を観て日本を憂う

 「ベイビー・ブローカー」(☆☆)
 赤ん坊の売買という題材は面白いし、それを取り巻く人物たちの役回りにも、配役にも瑕疵はないのだが、二時間を存分に苦痛に感じさせてくる映画。
 脚本に整理が成されておらず、設定を活かせていない上、構成も冗漫で、監督が標榜する「ロードムービー」の爽快さや疾走感など求めるべくもない。PTAの「マグノリア」の主題歌を出してきたりとか、恥ずかしい。
 映画の感想は以上として、あとは、映画を観たあとに居酒屋で映画友達と喋りちらかしているようなコラムとさせていただきます。

TOHOシネマズ新宿にて観劇

 どうでもいいことだけれども今の日本の保守派のなかには、中国、韓国を差別するあまり、中国人、韓国人までをも無条件に差別していいのだ、それが愛国なのだ、という大胆なレイシズムがはびこっているとおもうのだけれども(本当どうでもいい)、今の時代、そうした差別はファッションとしてであれつくづく流行らないだろう。ネット上の変なひとというのはネット上では数がいるのだが、世論を形成するわけではないのだから、放っておけばいい、そういう話ではある。
 韓国の文化支出はフランスに迫る勢いで、そこにこそ、私は脅威を抱くし、うらやましいとも思う。とくに映像文化は素晴らしいのですよねぇ。日本のアニメや、ライトノベルの情感を、(商業映画路線であっても)端正な撮影で昇華させる力を、九十年代から身につけてきて、国際的に注目をされてきた。フランス人のスノッブにいわせると、北野武が金獅子賞を獲ったころ、つまりサブスク配信が流行るずっと前から、海外のマニアにとって映画は日本よりも韓国のほうが面白い、感性がユニーク、という認識があったみたいだし。それと、日本は本当の本当のどん詰まり、歴史上かつてない低迷なのではないかというくらいの謎の下火なのだけれども、韓国は文学も盛りあがっている。
 だから日本の国際的映画監督ということになっているこの監督の「ベイビー・ブローカー」を観ると(日本の監督が韓国のスタッフ・キャストで撮っているわけで)、韓国の映画まわりの技術の高さが、非常に鮮明にわかる。シン・ウルトラマンの粗野なそれと比すれば、さらに分かる。撮影についてのノウハウやら方法やらをしっかりと、持っているんだよね。日本では廃れた儒教文化もあって、後進を育てる、みたいな気風もまだあったりするのではないのかな――これは憶測だけれども。
 韓国サイドでみると「ユンヒへ」という映画がある。この韓国映画は日本を舞台にして、韓国人女性と日本人女性の恋愛を描き、日韓の和解を描いている。こういう映画は、日本からは技術力の低さもあいまってけっして出て来ない。その着想の時点で「危うい」とイデオロギーによるレッテル貼りが成されると思うわけです。
 だからもう、彼らの映像文化(と一絡げにいってもいいと思うんだけれど)は日本人の追いつけない水準に達しているし、もちろん向こうでは、こっちの技術力の低さのことなんて、どうだっていいわけだ。せいぜいが日本にはアニメがある程度で、けれどもくり返すけれどアニメのエモーショナルな感じを、韓国の青春映画って、しっかりと出せるんだよね。
 世論のレベルでは、「新海誠の映画が楽しみ」とか、そういうの、韓国人にはフツーな話として、あるわけだ。で、日本で韓国アイドルのファンになるような局限的なかたちよりも、それはもっと広がりがあるんじゃないのかな。いや、なんていうかまあ大体、そこはお互い様と思うけれども。なんかレイシストへの反発あいまって大分韓国に肩入れしているような物言いになっちまってるね。

 韓国だけじゃないよ。中国もインドも、ことさら言及するまでもない。アジア圏内でみても、文化的な後進国となりつつある・なっていることが日本の問題なんだ。まあ無条件に外国人差別をするようなやからに、文化というか、表現なんてわかりゃしない。そうはならないよう、しっかりと文化表象にふれましょうね、ということか。いや、そんな理窟が必要なひとはそもそも観るだけ無駄か。