本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「なんともいえない一種特別の物質」――梶井基次郎と江國香織

 私が梶井基次郎の文章でとっさに思いつくのは、「愛撫」冒頭である。ここで、猫は、二葉亭四迷の「平凡」のポチのようにも、漱石の猫のようにも描かれてはいない。全き作家の感性によって猫は捉えられ、籠絡され、しかして他愛ない円環のなかにとどまり続ける。その意味でここにある言語感覚の根元にあるものは、「とるにたらないものもの」のクレイジーさのまだ手前、「ホリー・ガーデン」のころの、江國香織に近しいものがあったかもしれない。

 猫の耳というものはまことに可笑しなものである。薄べったくて、冷たくて、竹の子の皮のように、表には絨毛が生えていて、裏はピカピカしている。硬いような、柔らかいような、なんともいえない一種特別の物質である。私は子供のときから、猫の耳というと、一度「切符切り」でパチンとやってみたくて堪らなかった。これは残酷な空想だろうか?
   「愛撫」

 いうなれば、江國の怖いところは、話を「空想」に終わらせないために実際に「パチン」迄いく、やってしまうところにあるのだ。「きらきらひかる」でやんごとない関係性、相互理解の不可能性を主題に書き、以降そのテーマに向かい合い続けてきた彼女は、ただそこにある猫ひとつであれ、徹底的に、自らのレトリックで書き抜く、書き抜いた時にそこにあるものが江國香織そのひとの固有性のごとき地肌へと、こつりと到る、その筆致が訪れるまでけして譲ることができない。
 引き返しのつかない地点、そこまで。

 塩は、ほんとうに素晴らしい物体だと思う。天然の結晶だと思うと不思議で、みとれてしまう。まず、見た目が美しい。天日塩はふくよかだが凜々しく、岩塩は白が光を含んでいる。
 岩塩をミルで挽きながら小ぶりのステーキの上に散らし、輝く粒子となったそれが、いい匂いをたてている肉の上で半ば溶けてたちまち色を失う瞬間など、うっとりする。
 また、たっぷりの天日塩をつけて、脂気の多い魚を焼くときの、塩と、焦げた皮の香ばしさと、はぜてしまうほど豊かでやわらかで脂の甘い魚の身の、比類ない組み合わせ。
 ねっとりした、上等のお豆腐が手に入ったときも、つめたくして天日塩とわさびだけで食べる。
 揚げたてのロースかつの脂身にも、塩が絶対にいちばん合う。
   江國香織「とるにたらないものもの」

 どうであれ、「檸檬」の爆弾は鮮やかなものとして、記憶され、読まれ続けているわけだが、梶井の場合、その持て余された感性の不可思議が、固有性や、相互理解といった問題の切実さにまで到達することはなく、ただ彼は、感性の世界に遊ぶのである。
 土台、それでなにがいけなかっただろう。

 突然私は悟った。雲が湧き立っては消えてゆく空のなかにあったものは、見えない山のようなものでもなく、不思議な岬のようなものでもなく、なんという虚無! 白日の闇が満ち充ちているのだということを。
   「蒼穹

 「提灯も持たないで闇の街道を歩いてい」るその先で、実際にそのような気配を感じたわけでも、眼にそのように映ったわけでもなく、ふと訪れた詩情とも呼ばれる気分のうち、それを誇るように梶井は「虚無!」と断じる。その言い切り。言語感覚というよりは反射神経。ひとつのモノを置くように虚無、と!マーク付きで体現止めをする、自らの感じ方をそこで打ちやめにする、作家の倨傲なのか、衒いなのか、勇気なのか。そして、その!を打つ手つきと同質の「黄金色に輝く」果実が丸善に、ひっそりと置かれたのだ。