本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「この世にないもの、この世にとうとうありはしなかったもの」――チャンドラー・荷風・矢作俊彦

 探偵小説の場において、文飾に凝るという事。
 クリスティをはじめとしたいわゆる「ミステリー」畑とも、あるいはロス・マクドナルドやハメットのような「ハードボイルド」路線とも一線を画した、ただ、「散文」をめぐる美的な判断をよすがとして、探偵がさまざまな人びとと出会い現代に起こる事件に直面する、その文章を書くということ。
 優れた才質をもった文章家は、それがいかなることであるか、から目を背けることができない。
 出会う人物が、どのような服装をしていて、どのような訛りをもちいて喋るのか、どのように考え方を規定されているのであったか……。
 自らがタイプする文章を介して登場人物と出会うごとに、そのような細部を看過して通り過ぎることのできない作家というものが、中間小説と呼ばれる分野の書き手に稀少ながら――マクドナルドやハメットに並べるのも馬鹿げているほどの稀少さによって――存在する。彼は書く。

 私は腕時計を見た。出版社の大物はすでに二十分遅刻している。三十分待って来ないようなら引き上げよう。依頼人の好きにさせているようでは、ろくなことにならない。相手の身勝手さを受容していたら、こいつは誰の言うことにも逆らえないお人好しなんだと相手は踏むだろうし、そんな弱腰の私立探偵を雇う人間はまずいない。私は今のところ、どんな仕事でもとびつきたいというほど困窮してはいない。東部から来た素姓もしれない男に大きな顔をされるいわれはない。
 レイモンド・チャンドラーロング・グッドバイ村上春樹

 このようであったから、探偵小説はチャンドラーのもの以外認めない、とする読み手が代々、輩出されてきたのである。クリスティ的な手続き的―ジャーナリスティックな、文体を作り出すことを拒む文体ならば、これだけのことをただの一、二行で済ませていただろう。ここにはすでに「私立探偵」の自省があり「東部」への当てこすりがあり、ふんだんに毒が盛られてある。
 文章はなおも続く。

 相手はきっとビルの八十五階にあるパネル張りのオフィスにふんぞり返っているようなタイプだろう。目の前には押しボタンがずらりと並び、インターコムがあって、秘書は流行のビジネス・スーツに身を包み、男心をそそる美しい目をしている。こういう偉ぶつは、九時きっかりにそこにいるようにと人に言いつけ、自分がギブソン・ジンをダブルで飲んでほろ酔い加減で二時間遅れてきても、相手が文句ひとつ言わず、かしこまってそこで待っているのが当然だと思っている。そうならないと烈火のごとく怒り出す。そんな偉そうなことをやっていればさすがに神経がおかしくなり、アカプルコで五週間ばかり羽をのばす必要が生じる。

 この洗練された呪詛は、一見なだらかにもみえながら(そのエレガンスさと過激さとの絶妙な配合ゆえ、村上春樹が訳しているといってもさして外れではない)、成熟をした毒、社会的な広がりを有した毒であるがために、引き返しがつかず、そしてこのように書けば書くほどに、書き手は、書かれる探偵は、孤立をしいられる。「流行のビジネス・スーツ」、「ギブソン・ジンをダブル」、「アカプルコで五週間」といった修辞、固有名詞の棘は、そのまま書き手が社会にやんごとなく生きることでテクストへと放り込まれた、苦み走った皮肉や当てこすりであり、単純な罵声とはことなる、職業的にして宿命的な批判精神の軋み音なのだ。

 自分は海岸通りのホテルに茶菓を味つた後、汽車で東京に帰つた。人家の屋根の上には梅毒の広告が突立つてゐる大きな都会。電車の停留する四辻では噛み付くやうな声で新聞の売子が、「紳士富豪の秘密を暴あばきました………。」と叫んでゐる恐しい都会。長い竹竿を振り廻して子供が往来の通行を危険にしてゐる乱雑な都会。市民と市吏と警察吏とが豹変常なき新聞記者を中間にして相互の欠点を狙ひ合つてゐる気味悪い都会。その片隅に嗚呼あゝ自分の家がある。
   永井荷風「海洋の旅」

 近代日本文学を遡れば、永井荷風がそのような作家であっただろう。だれからも優しさを求めないかわりとして、道ばたに死にかけた病人が転がっていようが、自分は一切手出しをしない、という、フランス流の個人主義と武士道とをカクテルにしたようなヴィヴットな個人主義を彼はもっていた。
 彼ら選ばれた孤立者たちは、持ち前の美意識ゆえに、街を歩けば歩くほどに凝った皮肉と批判とを日々新たにこしらえ続けずにはおられず、すなわち歩けば歩くほどに、なおも深く、孤立をする。そして社会に放り込まれたる純粋なる希有な一個であるがゆえに、社会の内側から、社会をあたかも外部のように照射する目を、もはや好むと好まざるとにかかわらず、身につけていてしまう。現代日本においてかかるハードボイルド的な美意識を文明批評的な視座へと、正統に昇華させた作家に、矢作俊彦がいる。

 地下鉄銀座線には、いよいよ失望させられた。変わったところを探す方が難しかった。車体こそ黄色くなかった。車内の電灯も、一度として消えなかった。集電器がシューシューと音を上げることもなかった。しかし、目についた変化はそれだけだった。
 渋谷でトンネルを出ると、彼は席を立った。眼下に広がる景色は、ときおり夢に登場した中学時代の通学路そのままだった。プラネタリウムの天蓋が銀色に光っているビルに巨大な映画の絵看板。街の上空を横切り、ひんやりと薄暗いビルに吸い込まれて止まる地下鉄。
 デパートの中を降りていく階段も記憶のとおりだった。駅前では交番と犬の銅像が出迎えた。周囲は、待ち合わせの若者たちでごった返していた。
   矢作俊彦「ららら科學の子」

 三十年振りに日本へともどったこの男。この男は、社会を俯瞰する選ばれた者のみがもつ、呪詛の高みを通り越して、もはやすべてが呪わしいのか、そうでなかったのか、――区別もつかないゼロ地点に屹立をしており、たえず当惑を迫られている。現実の感覚を知り、ふれる、離人症者のように。あるいはウォーター、とささやきかけられて水の水であることを知るヘレン・ケラーのように。
 もちろんヘレン・ケラーには、仮にも若者文化の先端に位置すると呼ばれる、渋谷の駅前を、三十年前と変わり映えもない、と語る底意地の悪さの持ち合わせなどなかったであろう。この、渋谷駅に舞い降りた孤立した者は、近代小説の創始であるドン・キホーテに忠実であり、私たちが街についてのわけ知りであるほどに、彼の逐一の言動が乾いた笑いを誘ってやまない。だが読者は、そこで一体なにに笑っていたのであったか。書き手にさえ、なぜこのようになってしまったのか、そんな根底的なことなどもはや、見失われてしまったのかもしれず、であるからこそ、街はこのようにテクストの上に見窄らしくであれ、粒立ち、輝いているのだ。
 凝視をし、神経を研ぎ澄まし、街を辞典のように歩いて、文飾に凝る事。
 街を蹂躙し、時として新しい街をさえ作り出す事。

「ねえ。あなたの好きなものを言って」
 意味が分からず、彼は聞き返した。「何のことだ?」
「何でもいいから、好きなものを言ってみて」
「干し肉と豆腐の炒め物」
「夕食のことなんかじゃないわ」
 彼は手を休め、振り返った。
「本当に好きなものを言ってみて。ひとつだって言えないでしょう」
 妻はこちらに顔を向けた。目が光り、それがこぼれ落ちた。西日に赤らんだ妻は、とても美しかった。
「この世に在るものより、この世にないもの、この世にとうとうありはしなかったものの方が絶対、好きなのよ」
 あいかわらず、言っている意味が分からなかった。