本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「百人に近い家族職員、三百三十人に余る患者たち」――坂口安吾、小林秀雄、北杜夫

 あくまでも一例なのであるが、日本文学、あるいは構造としての小説、と向き合った時に思いうかぶ、ひとつの作品がある。

 夏が来て、あのうらうらと浮く綿のやうな雲を見ると、山岳へ浸らずにはゐられない放浪癖を、凡太は所有してゐた。あの白い雲がうらうらと浮いて、泌むやうな山の季節を感じながら、余儀ない理由で都会に足を留めねばならぬとき、彼は一種神経的な激しい涸渇を感じて、五感の各部に妙な渇きを覚えながら、不図不眠症に犯されてしまふ。特別な理由があるわけではないが、彼の半生を二つの風景が支配してゐた。一つは言ふまでもなく山岳であり、そして他の一つは、あのごもごもとした都会の雑踏であつた。
   坂口安吾「黒谷村」

 これほど迄に、文藻に富み、饒舌であり、豊かで広がりをもったエクリチュールで書いた坂口安吾を私は知らない。「半生」という単語の大きさが正当なそれとなる、間口の広い文体。自然描写の美しさ。飽きさせない雄弁さ。「彼」の三人称を用いて、「本格小説」が書かれうるきわめて視点の高いところから、この文章は書かれているが、以後の安吾はこのような文章を書き続ける道を辿るのではなく、「生きよ堕ちよ」の宣言の通りに、小振りな小説ばかりを書くようになった。平成年間において坂口安吾は大々的にリバイバルをされたが、一体、だれが「黒谷村」を読んだのだろうか。批評家はこともあろうに安吾ハイデガーと対置をさせて称揚し、その手つきは、新海誠の映画であり「シン・ゴジラ」のごとき文化表象が起こった時代を予見していたと云えたであろうが、結句「黒谷村」をだれも読まなかったのだ。批評家を取り巻く批評家たちも、小説家たちも、読めなかった。

 「堕落論」が名のある文として知られていたのならば、この小説は、明らかに初期の坂口安吾の代表作であり、「堕落」と敢えて作家の云う時、その「堕落」とは「黒谷村」であり、それをさらに長篇へと発展させ「嵐が丘」やドストエフスキーがいる地点を目指した「吹雪物語」の無惨な失敗を、反省とはしない、もはやその大きさを求めないことを、自らの作家としての「堕落」としたのが、安吾なのである。そして現にそこから、それこそ未来派的な新海誠や、ファシズム的なシン・ゴジラとも通底すると云ってよいであろう、「桜の樹の満開の下」を初めとした、形式上の退行が起こる。不連続殺人事件であれ落語ものであれ、いずれも、安吾の出来の良いものにかぎって、造作の上では子供じみた世界への退行とともに、書かれている。
 どうあれ安吾は自らの「堕落」をよく知っていた。であるからこそ、

 晩年の鴎外が考証家に堕したという様な説は取るに足らぬ。あの厖大な考証を始めるに至って、彼は恐らくやっと歴史の魂に推参したのである。「古事記伝」を読んだ時も、同じ様なものを感じた。解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の懐いた一番強い思想だ。解釈だらけの現代には一番秘められた思想だ。
   小林秀雄「無常という事」

 と言い切る小林と、安吾は作家として、対等であれた(「伝統と反逆」)。ささやかな小川の流れのように、名もなく流れて行く性質の散文しか見当たらずにそれをもって「日本文学」とでも名づける他なくし、遂にかつて二葉亭が、安吾が夢見たようなドストエフスキーはおろか、嵐が丘の建造物の、ひとつとして建つことのない日本。

 楡病院の裏手にある賄場は昼餉の支度に大童であった。二斗炊きの大釜が四つ並んでいたが、百人に近い家族職員、三百三十人に余る患者たちの食事を用意しなければならなかったからである。
   北杜夫「楡家の人びと」

 北杜夫は人気のない作家だ――そのように云うと、かなりの語弊があるのだろうが、つまりは人気がない。三島由紀夫や、安吾や、あるいは安部公房のような作家でもいいのだろうが、作家主義的な含みからみて、キャッチーなけばけばしさがない、日本で人気がない、人気となることがない作家、なのである。かくも堂々とした小説。みっちりと隙間なく配慮が行き届き、まさに批評や解釈の入り込む余地がない、本物の小説。それであるからこそ、北が人気をもつことはない。
 結局は、小児的なものが面白く、それを文学だとするひとつのイデーが、私たちの日本にはあるようにしか思われない。質の観念でみて、どう考えても「楡家の人びと」という建造物ひとつを前に、それを絶賛をした、三島という小川の流れは、なんであれ、川のせせらぎに過ぎない。そして川は流れ、現代文学の貧寒たる地帯へとたどり着き、かつて経験したこともない細流となった。
 まさに「堕落」をしたわけである。