本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「ああ、ちくしょう、マーティ、こいつらにも見せてやろうぜ!」――サローヤン・ブコウスキー・深沢七郎

 枯れているのでも、痩せているのでも、もちろん書き飛ばしているのでもない。謂わば、饒舌になにかを語り、語り尽くしたあとになってから、自らの言葉のうちに原石を掘り当て、さらに研磨をする。語られた内容のうちのほんの最低限度までが残るように、しかもそこに含まれていた自らの個性をけして台無しにはしないように、細心に削り、残したものを持ち前の豪胆さで、提供する。そのようにして出来た、飄然とした風合いの、飄然としながらにゴツゴツとした地肌が残る散文。国語の響きにささえられた、純粋な言語が作り出す論理の力や、論理のおかしみによって牽引される散文。

「さて、お前たち、どうだったかね?」
「僕たちは一緒に昼飯を食べました」
 とジョーイが言った。
「さあーてと。今度の罰は、十六回目だったかな十七回目だったかな」
「そんなに多くはありません。きっと十一、二回目です」
 ジョーイが言った。
「しかしだ。一つだけはっきりしておるんだが、今度は三十発にするはずだった」
「この次が三十発にするはずだったと思うんですが」
 とジョーイが言った。
「いや。どこかで数がわからなくなったんだが、確かに今度、三十発にするはずだった。どちらが最初かね?」
「僕です」
 僕が言った。
「よしアラム。椅子によくつかまって、しっかりするんだ。それから声を加減しなさい」
「わかりました。出来るだけのことはします。でも三十発というのは、とても多いですから」
 すると妙なことがおこった。彼は確かに三十発の鞭をくれたし、僕も確かに喚いたのだが、それは手加減した喚き声だった。それは今までのうちで、一番手加減した喚き声だったのだ。というのは、それは今迄受けたうちで一番楽な鞭だったからだ。僕は鞭を数えて、確かに三十あったのだが、痛くなかった。だから僕が恐れていたように、泣くようなことはなかった。
 ジョーイの場合にしても同じだった。僕たちは並んで立って、泣くようなことはなかった。
「今度は上手に悲鳴を手加減してもらってとてもありがたかったよ。わしがお前たちを、殺そうとしていると皆に思われたくないからな」
 とドーソン先生が言った。
 僕たちは、軽くぶってくれたことに対してお礼を言いたかったのだが、切り出せなかった。それでも僕たちの気持を、先生はわかっていたと思う。なぜならば先生は、わかっていたんだと僕たちに思わせるような、微笑を浮かべたのだ。
   サローヤン「我が名はアラム」三浦朱門

       柴田元幸による新訳の邦題は「僕の名はアラム」

 サローヤンはジョン・ファンテと仲が良かった作家であり、敢えてカテゴライズが必要であるのならば「安ワイン派」または単に移民派とでもなるのだろうが、アメリカへの移民(移民二世)として、外国語としての英語に向き合ったが末の明快な文体を特徴とする点もまた、ファンテと共通する点である。外国語で小説を書く作家はコンラッド辺りが走りだろうが、肌合いや企図の素直さからいえば、その文章の成り立ちはアゴタ・クリストフなどに近しい。すこし遡るとこのようなエクリチュールはクヌート・ハムスンなどにもみられる。一見シンプルに過ぎ、そしてまたビートニクなどの潮流とはまったくの無縁、どころか(日本において漱石が高踏派と呼ばれたのに似て)そっぽを向き過ぎていて悠長にみえたことから、内容は明るく素朴なのだが、むしろ玄人筋に熱心なファンが多く、ファンテを崇拝する、後継者として出てきたのが、チャールズ・ブコウスキーである。

 みんなが座れるようにと、厚板を使って間に合わせの正面観覧席が作られていた。わたしたちはその下に潜った。ちょうど正面観覧席の中央あたりの真下に少年が二人立って、上のほうを見ていた。十三歳か十四歳ぐらいで、わたしたちよりも二、三歳年上のように思えた。
「あいつら何を見上げているんだろう」とわたしは尋ねた。
「見にいってみよう」とフランクが答える。
 彼らのいるところまで歩いていった。一人が近づいてくるわたしたちに気づく。
「こら、このガキども、こっちに来るな!」
「いったい何を見ているのさ?」とフランクが尋ねる。
「このガキども、こっちに来るなと言っただろ!」
「ああ、ちくしょう、マーティ、こいつらにも見せてやろうぜ!」
 わたしたちは彼らが立っているところまで近づいていった。そして見上げる。
「いったい何なの?」とわたしが尋ねる。
「くそ、おまえら見えないのかよ?」彼らの一人がわたしに聞き返す。
「見えるって何が?」
「おまんこだよ」
「おまんこ? どこに?」
「ほら、あそこだよ! 見えるか?」
 彼が指でさし示す。
 束ねた自分のスカートを下に敷くようにして一人の女性が座っていた。彼女はパンティを穿いていない。圧板の隙間を見上げると、彼女の性器が目に飛び込んできた。
「見えるか?」
「ああ、見えるよ。おまんこだ」とフランクが言う。
「さあ、わかったらとっととここから行っちまえ、何も言うんじゃないぞ」
「でもぼくらも、もうちょっとだけ見たいなあ」とフランクが言う。「もうちょっとだけでいいから、ぼくらにも見せてよ」
「よーし、でもちょっとだけだぞ」
 そこに立って、顔を上げて見つめた。
「見えるよ」とわたしが言う。
「おまんこだよ」とフランクが答える。
「本物のおまんこだ」とわたし。
「そうさ」と年上の一人が言った。「あれがそうなのさ」
「これからいつも思い出すだろうな」と私が言った。
「よーし、おまえたち、もう行ってもらわなくちゃ」
「何で?」とフランクが尋ねる。「どうしてぼくら見続けていちゃだめなの?」
「それはな」と年上の少年の一人が言う。「おれはこれからあることをするからさ。さあ、あっちへ行くんだ!」
 わたしたちは立ち去った。
「あいつは何をするんだろうね」とわたしが尋ねる。
「わかんないよ」とフランクが答える。「きっとあそこ目がけて石でも投げるのかもね」
   C・ブコウスキー「くそったれ! 少年時代」中川五郎

 ブコウスキーがパンク作家を自認しながらも、やたらとクラシックを流しワインを飲むのは、ワインが盛んなイタリアの移民二世であるファンテを崇拝していたことに由来をしているのだが、その時点で本末顚倒であるかのような、それ自体パンクスといいうる自己破壊的な印象を、彼がクラシックを流しワインを飲む都度、読者はもつ。その自己像のあり方、内容をみていても分かることとは、笑いや、破壊の力とはそのまま論理の力であるということであり、ブコウスキーの場合、表面にまとわりついている修飾や形容詞をそぎ落とした、むき出しの言葉の力が、その野卑なライフスタイルと一体となり、テクストの上にその強度を放っていることだ。
 同系統の作家として日本に数えるべき作家は深沢七郎だろう。彼らからすれば、日本の無頼派私小説作家といった人種は、ごてごてと飾り立てた文章を書く作家然とした作家に過ぎなくなる。

 ちょうどその頃、三角屋敷のおえいは北はずれの墓場で、死んだ父っさんのお墓の前で手を合わせていた。そこの土の下に埋めけてある父っさんに頼んでいた。
「毎晩、父っさんの言ったとおりに、罪亡ぼしをしているけど、あのくされのヤッコだけは堪忍してくんなんしょう、あのくされだけは、わしゃ死んだ方がいいだ」
 お墓といっても土を少し盛り上げて、その上に石が置いてあるだけだった。石のうしろには新しい塔婆が立ってあった。
 おえいが、あのくされだけは堪忍してくれと拝みながら頼んでいるところへ、黒い羽のでかい蝶々が塔婆のところへ舞って来たのである。
 おえいは、
(あれ、今頃、蝶々が?)
 と、びっくりした。
(これは、死んだ父っさんが蝶々になって)
 と、思った。
(あんなに嬉しそうに舞ってるのは、きっと喜んでくれてるのだ)
 と、嬉しくなった。
(よかった! よかった!)
 と安心した。
(土の中で、きっと喜んでくれてるのだ、わしの頼みもきいてくれて、あのくされだけは仕方がねえ)
 そう言ってくれてるのだと思った。
   深沢七郎「東北の神武たち」

 彼は外国語で書いたわけではないが、日本語は日本語でも作中に方言を頻用する点を、看過してはならなかっただろう。――本当は文脈上からいっても、「言わなければよかったのに日記」などが適当であったろうが、今手許にそれがなかった(また、ブコウスキーのほうにも鞭で打たれるシーンがあったため鞭のシーンを引用したものの、どうもこちらでいいだろう、とブコウスキーを引いたため、いずれも参照がちぐはぐになってしまった)。

 飄々とした筆致で書きつけながら、その文章が読み手にどのように作用をするのか、どのような効果を生むのか、深沢は非常に自覚的で、それゆえに文章が作家のものらしくみえないといった当時の世評を、全く意に介していなかった。要するに、意に介する必要がないまで傑出していたし、「知的にみえない」という言いようなど彼からすれば最大の褒め言葉だったのだ。小説と呼ばれるものがあり、小説家などというものが世に多くはびこる中、小説家でない小説家、というものがもしもあったとしたのならば、型にはまっていない分そちらのほうが幾らも格が上なのである。いろいろとあるが、「甲州子守唄」などを読むとすでに、現代文学のそれなどと比するのも愚かしい、深沢の技巧の練度に、読者は目を見張ることになるだろう。