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「人間界の語はそのままここにも応用が出来るのである」――江藤淳、「吾輩は猫である」

 漱石の「吾輩は猫である」については、若かりし江藤淳の「夏目漱石」が見事にその本質を捉えている。「猫」を読み、「夏目漱石」を読み、ふたたび「猫」を手に取り、いかに年輪を重ねていこうが論理的にも、感覚的にも、以下のような解釈から私は私の「猫」を解き放つことができず、その必要性も感じることができない。ちかごろ「坊っちゃん」や「草枕」を風呂につかりながらたびたび読んでいるのだが、変わらない。

「猫」の随所に見られる人生一般や人間に対する反撥の底には、「生」そのものに対しての殆ど生理的な嫌悪の感情があるのだ。「猫」に表われた作者の癇癪はこの嫌悪感との対応関係に於て捉えられなければならぬ。漱石も又、アントワーヌ・ロカンタン(サルトルの「嘔吐」の主人公)のように、マロニエの根を見て嘔吐をもよおす類の精神作用の持主なのである。
 江藤淳夏目漱石

 つまり、漱石は猫という人間社会の傍観者を小説の語り手に設定し、テクストに現われる小説家であれ、女中であれ、人間という人間を徹底的に嘲弄をし、悪罵するということをした。その厭人性、厭世観は、落語の語りや英文学から持ち帰った書き言葉によって、その毒が強まれば強まるほどにユーモアへと昇華されているのが、やっかいな点であり、もしもユーモアがなかったのならば、それこそ(日本における)自然主義的な「暗い」小説へと堕し、それゆえ厭人性、厭世観は、読み手にいつものごとくに御しやすい代物となっていただろう。読了には骨が折れるのだが、この小説のユーモアの力には論理的な強さがあり、このユーモアの力がなければ、なぜここまで書き手が世界を憎悪するのか、が測りがたく恐ろしいテクストには、なりえなかった筈だ。
 加えて、あらゆる「人間」に憎悪を向けてやまない語り手である猫そのものが、極楽極楽といって死を受け容れてゆく、憎悪する主体というか視点そのまでもが、切り崩される。ここにおいて、文明批評を越えた、「生」そのものの否定のプロジェクトが、「吾輩は猫である」においては完遂されたといってよい。

 ちょっと読者に断っておきたいが、元来人間が何ぞというと猫々と、事もなげに軽侮の口調をもって吾輩を評価する癖があるははなはだよくない。人間の糟から牛と馬が出来て、牛と馬の糞から猫が製造されたごとく考えるのは、自分の無智に心付かんで高慢な顔をする教師などにはありがちの事でもあろうが、はたから見てあまり見っともいい者じゃない。いくら猫だって、そう粗末簡便には出来ぬ。よそ目には一列一体、平等無差別、どの猫も自家固有の特色などはないようであるが、猫の社会に這入って見るとなかなか複雑なもので十人十色という人間界の語はそのままここにも応用が出来るのである。
 夏目漱石吾輩は猫である

 セリーヌなどの場合には、あの書き言葉にはどうにも病理的なものを関係づけて読まざるをえないようなところがあるのだが――ある見方をすればセリーヌなどよりも恐るべき、このような漱石の果てしない憎悪の根源は、幸い、彼がテクストを書き続けたことによって、単に病的なもの、として切って捨てるような言い方、単純化が許されなくなった。(私が日本近代文学史におけるほぼ唯一の重要な小説とみる)「明暗」において、この異様な天才の絶望の深さは、これぞ小説だ、という骨格と構造美のもとで、十全に表現され尽くされている。