本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「病気がちの母は道徳潔癖症でもあるので」――辻仁成・佐伯一麦・西村賢太

 最近の新人の小説を読むにつれて日本語というものの一体なんであったのかが、わからなくなっていく。富岡多恵子の「厭芸術浮世草子」に、日本語で書かれた小説があるのならば読みたい、読みたいと常々おもっていて……という一節があったが、私の感懐というのは、それともまた、位相がことなる。小説に書かれる、人間の味というのでもない、ただ純粋な言葉の味、日本語の散文の味、というものが、近年になって本を開けば開くほど、急速に衰えて来ているかに思われてならない。インターネット的な、横文字でゴシック体で居並ぶような文章が、小説のなかにも一般的になった、と云ってもいい。小説用のものとしてある程度の公約数としてあった、小説的な文章、それが衰退をしていったのはネットの普及以来に相違もないのである。
 あるひとつの虚しさを覚えさせられるのは、厳然たる事実なのだが、――では小説用の文章、小説用の日本語とは何か、といえば、当然そんなお約束や形式といったものが、「小説」という場において必要な道理がない。たとえばなのだが、それはこのような表象となってかつて書かれていた。書き出し部分である。

 陸に上がった後も海のことがいつまでも忘れられない。
 函館湾と津軽海峡とに挟まれたこの砂州の街では、潮の匂いが届かない場所などなかった。少年刑務所の厳重に隔離された世界も例外ではなく、海峡からの風が、四方に屹立する煉瓦塀を越えてはいともたやすく吹き込み、懐かしいが未だ癒えない海の記憶を呼び覚まさせる。
 船を降りて二年しか経っていないせいもあり、肉体の芯には船上にいる時の目眩にも似た感覚が残っていた。足先に力を込めて踏み支え、潮と潮とがぶつかりあう海峡の真ん中で、垂れ込めた灰色の空から打ちつける夥しい雪片の礫を額に受け止めながらも、生と死の境にいるような底揺れに堪えた。連絡船の汽笛が遠ざかり、スクリューの振動が失せ、海鵜が空の彼方へ飛翔してしまうと、私はいつもぽかんと函館少年刑務所の敷地に佇み、ただぼんやり碧空を見上げているのだった。
辻仁成「海峡の光」

 「新潮」の伝説的編集者の手がかけられていることもあって、緊張感があり引き締まった、相応にいい文章であろうが(この作に次いで書かれた小説によって書き手は国際的文学賞を受賞する)、「世界」や「彼方」や「碧空」といったいかにもそれらしい語の選択は、ミュージシャンを出自とする小説家の、過剰な「文学」志向によって支えられており、全体の印象もいかにも(善かれ悪しかれ)「純文学」的である。
 どう考えてもその事態とは、少なくとも半分以上は、批難に値する――「文学」や「純文学」というものが、なにかの型のようなものとして、この世のどこかにあるわけではない。そしてまた文学作品を書きたいからといって、「文学」的なるものを志す必要性は、書き手にはまったくない、それがほんらい小説を書くということであったのだし、表現者とはそのようなしがらみとは無縁に、自由でなければならなかったはずだ。ごく、当たり前のことである。
 だが一方で、この作品は「文学」を曲がりなりにも継承するがゆえに、昭和時代に書かれた日本語の小説の文章の、香りといおうか、クセが、陰翳が、漂っている。その香りなのか、クセなのか、陰翳なのか――それは一体、何であったというのか。
 この文章にも、単に技巧や、ミメーシスといって割り切ることもできないであろう、その、ファジーであるがゆえに確かなものが漂っている。

 この春私は、繋累と離れ、仙台市内のアパートで独居の身である。病院通いをするために十五年ぶりに戻って住むようになった故郷の街だが、放蕩息子の帰還のごとく、まず最初の部屋探しからなかなかに現実の厳しさを知らされることになった。
 まず、三十を過ぎた男が、出来るだけ廉い部屋を、という条件を切り出しただけで不動産屋は警戒の色をあからさまにする。人口百万といっても、東京とちがってそのような流動は希なのだろう。おまけに、職業は、と訊かれて、ちょっと家で書き物をなどと答えると、とたんにそういう人はどうかなあ、大家さんが何というかなあ、と首をひねられる始末だ。
佐伯一麦「散歩歳時記」

 「放蕩息子の帰還のごとく」と書く書き手は、さして衒って、それを書いているわけではないように思われる。やや鼻につく自意識がそこにはあるとしても、ものものしい手つきでその語を選んでいるわけでは、大きく文章を飾り立てに仕掛けに出てきているわけではない。この文章においては、そこが重要と私はおもう。かなり自然な身構えのうちに、「放蕩息子の帰還のごとく」が書かれている点。それはバカバカしいと同時に、愛おしいことでもたしかに、あったはずなのだ。
 こうした日本語的なるもの、をめぐる曖昧にしてたしかな状況の末路を、西村賢太の散文は集約的に表現しているのだとも解釈ができよう。
 せっかくありついた割のいいバイトでの初日を終え、さんざ酒に呑まれた翌朝の叙述だが、

 今からあの海産物店に出勤すれば、まだ遅刻扱いで済むかもしれぬ、との甘な考えもよぎったが、やはりそれはすぐと打ち消した。
 すでにこの時間までに、電話一本も寄越さぬまま現われなければ、そんなものは、とっくに無断欠勤として処理されてしまっているであろう。今更どのツラ下げて、と云った類の話である。
 それもただの無断欠勤ならば、まだしも今一度のチャンスを求めて弁明の法を模索しようとの気にもなるが、昨日にあの饗応を受けての今日のこの始末では、最早かような未練を抱いたところで、どうにもなるまい。
「うむ……これはもう、ダメだな」
 ようやくに諦めの腹を決めた貫多は、煙草を揉み消すと、またぞろ体を平たくした。
 三畳間の虚室の中には、胃液に漬けたみたいな魚の匂いがフンプンと漂い流れている。
 その気色の悪い悪臭の中で、貫多はまたふいと憂鬱な気分が生じてきた。
 何んにしても来週には、一日分の日当を貰う為にあの店に赴かねばならない。それが何んとも気が重かった。
西村賢太「夜更けの川に落葉は流れて」

 一文ごとに改行の入る、軽いはずの文章であるが、紛れもない玄人の文章であり、少なくとも小説として明確な文章、ではある。明確なというのは、明確にすべての語を自らの責任で選んでいるがゆえに、多くのものを犠牲にしていること、そのことに書き手が自覚的であることが、読み手にも直観的に理解ができる、そうした性質の明確さがあるということだ。しかし犠牲にされているものとは一体なんだったのか。
 神保町の棚から取り出してきたばかりのような、未だだれも知らぬといって過言でもない、大正時代の作家に私淑をし、私小説作家となった書き手の文章は、古きものを求めれば求めるほど、自らの文章の肌合いを確かにすれば、するほどに、日本語の日本語らしさまでもが技巧の圏域へと昇華されてゆくがために、私のいうファジーな日本語の質感なり感触というものから、むしろ遠のいている。むしろここでは、技巧がすべてに先行をし、かつて太宰や安吾のパロディストであった壇一雄よりも、決定的であり、破壊的な、蹂躙と破天荒とが、創作の快楽となっているのだ。

 佳穂の父親は、貫多の胸倉から手を離すと、今度は左の二の腕辺をガシッと掴んで引き起こそうとしてきた。
「立つんだよ、警察行くぞ」
 重ねて告げて、腕に一層の力を込めてくる。
 これに貫多は駄々っ子の如く、身を激しくよじってそれを振りほどくと、
「ごめんなさい、許して下さい!」
 勢いよく床に額をこすりつけ、泣き声を振り絞って哀願した。
「何してんだ、立て!」
「立ちません!」
「今さら、そんな土下座なんかしたってなんになるんだ。ほら、立つんだよ!」
「嫌です! ごめんなさい! 何んでもしますから、どうか警察沙汰だけは勘弁して下さい!」
「こいつ、ふざけんな!」
「ふざけてません! ぼく、佳穂さん……梁木野さんには本当に申し訳ないことをしてしまったと、後悔しています」
「後悔は、留置場の中でしろ!」
「駄目ですっ、もし、ぼくがそんなところに入れられたら、病気がちの母は道徳潔癖症でもあるので、絶対に自殺してしまいます!」
 咄嗟に大嘘も飛び出しながらも、しかしその謝罪は、今や完全に心奥からの叫びに他ならぬものになっていた。
西村賢太「夜更けの川に落葉は流れて」

 ひとりの破壊者となるのであったとしても、しかしそれは、日本語というものと切って離せない所にいたがゆえに、彼は破壊者たりえたのに、ちがいはないのである。そうでなければ破壊は破壊ではなく、快楽が快楽でないところ、この書物が生み出す笑いは起こらなかったはずであった。大仰にいってそのひとつの臨界点が、現代ということなのだろう。そしてすでに古き良き日本語は死に瀕している。振り返れば、芥子粒のような快楽に満足をする書き手たちに溢れ返り、今日この頃の日本の「文学」の文章の大勢には、あたかもネットでブラウジングをさせられているかのごとき退屈さが満ちている始末なのである。