本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「きっと、こういう味がしたんだろうな」――勝目梓「いつも雑踏の中にいた」、石丸元章「ベルクの風景」

 曲折、という言葉がある。大体が、いろいろな紆余曲折を経ていまに至る、……というふうに扱われるが、近年の日本文学の新人をチェックしていても、すぐにそれが頓挫をしいられてしまうのは、人間の味といおうか、陰翳といおうか、そのひとがそのひとである以上は浮かび出てしまうはずの佇まい、のごときものが、文章の上から悉く、排除をされているからにほかならない。言語芸術として、言語が電子機器の歯車のように適確に回転をし、一定の効果をあげる、その歯車の軋み音ばかりがささやかに聞こえているだけで、令和の御代のテクストにかような「味」を見いだすことは稀である。すみません、やりたいことは分かりました、これは読めないです、といって、半ページも読み進めぬうち、閉ざさなければならなくなる本がいかに多いことか――。

 酒乱というのも困るなあ。いろんな酒乱がいたっけ。炭坑にいるときもスーパークラスの酒乱が何人かいた。
 炭坑の寮には、手近に作業に使うツルハシや手斧なんていう物騒なものがあるから、酔ってあばれる奴がいると怖い。
 そういうのがあばれはじめると、寄ってたかって押えこんで、ロープでぐるぐる巻きにして、コンクリートの廊下にころがしておくわけ。酔がさめれば、根はいい奴なんだから。おとなしくなったとなると、誰かがロープを解いてやっていた。
 それでこりるかというと、こりない。飲んで、一定量を超すと必ず眼がすわってあばれだす。
 一度は、こっちも酔っていたから、暴れる奴を二人がかりで押えつけて、手足を抱えて、寮の前の海に放りこんだことがあった。溺れ死にでもされたらえらいことで、いま考えると荒っぽいことをしたなあ、とゾッとする。
 暴力的になる酒乱の人は、下手になだめると逆効果になる場合が多い。力で押えこむか、相手にならずにこっちが姿を消すかだ。姿を消すのがいちばん利口だが、それが一緒に飲んでいた仲間だったら、ほったらかして逃げるというのも冷淡だよね。
 女の人で、酔うと裸になりたがる癖の人がいた。相手が若くて美人なら、こういう酒癖は大歓迎だね。
勝目梓「いつも雑踏の中にいた」

 この文章に流れている、なにか人心地のつくような感覚。文章を、では勿論あるのだが、間近に人間と相対して話を聞いているような感覚、あるいはそれに近しい人間の実在に触れている感覚、といおうか。
 私が云いたいのは、酔っ払った人間のだらしのなさといった、ことがらを、露悪的に書く文章を私が愛好をする、といった性質のことではない。そうではない。そうではなく、人間を人間たらしめる、経験や、観察や、成長や、失敗を巡る話というものは、文章の巧拙や、技巧の成功か失敗かといったことを越えて(もちろんこの文章にも話術のごとくに上手に書く技術というのが要求されているわけだが)、ただそれがそのようにあったのだ、ということをテクストに書いてさえくれれば、いつの時代の人間にも伝わる、ある直接性に祝福をされている、されてきた、はずなのだということだ。しかし、現代日本の書き手たちの筆から、かような、人生をめぐる行き掛かりの話を聞くことは、どこかから跡絶えてしまった。
 そのように指弾をする私であれ、私の体験なり、挫折というものの、卑小で、陳腐であることを知っている。そこに情けなさの感情も持つのである。
 たとえば、新宿。私はあの繁華街で、少なくはなかった知友を得、時を共有して過ごしてきたのであったが、成熟らしき成熟も未だおぼつかないまま、起伏のある人生経験らしきものさえ、収穫としてそれを得てきたのであったのかは、疑わしい。その予感は、いつでもあるのだが――たとえば朝、駅の構内にある、コロナ禍によって定宿としていた宿が潰れ、紀伊國屋の地下街のメシ屋が潰れたあと、なお残るカフェでブレンドを啜る時、ふつふつと今度こそ、なにかが起こる、そう感じる。

 その朝のしずけさは、チャンドラーの「ロング・グッドバイ」中に描かれる、開店したてのバーを私にいつも思い起こさせるのだ、磨き込まれたタンブラー類、きらきらと輝くボトル、埃の払われた分厚なカウンターのバーの美しさ。一人、また一人と客がやって、その秩序も調和ももろく乱されて、蹂躙されて、ヘドと乱痴気さわぎによって用意されたすべてが台無しにされてしまう、しまうまぎわの、はかなげな一瞬間。すべては台無しになるのであったが、騒ぎのあと残るのは、いつもの汚穢であり、堕落のごときものでありながらも、しかし成長の糧となるものをそのなかに含んでいるのではなかったか、か、と一抹の甘美な期待を、いつも私は抱いていてしまう。


 オールのDJセットのあとは耳が大抵遠くなっており、朝からビールを飲んでいる新宿の人びとの間、ベルクのコーヒーを私はそのような予感とともに、飲み下す。果たしてその予感の叶ったことなどは、あったのか、なかったのか底知れないかったが、確かに云えるのは、そのようにして飲むコーヒーには格別の、はてもない味がいつもしていたことだ。

 中学の頃、スタインベックのベーコンに憧れて、母親にねだってあちこちに店にゆき、さまざまなベーコンを買ってもらったことがある。が、ついぞスタインベックのベーコンには出会えなかった。

 そして―― ある日気づくのだ。スタインベックのベーコンは買えるものではなくて、自分で労働した者が、汗や豆だらけの掌の等価として喰らう、自分の身のような肉の塊なのだ。

 溶け出した脂がいかにも美味そうなんだよな。脂にパンを浸して食べたりしやがる。きっと、こういう味がしたんだろうな。最近俺にはわかるのだ。なぜなら、今俺はベルクでスタインベックのベーコンを食っている。
石丸元章「ベルクの風景」

 

 ※「ベルクの風景」を含むヴァイナル文學選書はそのコンセプト故、アマゾン等の通販では入手ができない。

kabukicho-culture-press.jp