本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「フィクションは、現実を読み解くために必要な鍵を読者に与える」――横光利一「旅愁」、イヴァン・ジャブロンカ「歴史は現代文学である」

 残念なことに、戦争は私たちにとって過去のものではない。かろうじて、昭和末年生まれの私たちの世代にはまだ、昭和と繋がっていた、という感覚があったと思うし、昭和史について、自分で勉強をし、どんな人物が好きであったか、かれこれの事件についてどのように思いめぐらすか、といったことによって、自らの価値観を知る、ということはできただろう。そして、それは今なお有意義なことたりうるだろうが、しかし、今眼前にプーチンの戦争が起こり、秋にも中国の台湾侵攻がはじまるという情報がリークされているような、この世界のなかで、私たちにとってすでに、戦争とは過去のものではないのである。
 もちろん中国の情報化戦争、情報戦争に思いをはせれば、それはなにを今更、という話ではあっただろう。インターネットとは冷戦のようなものであった。

 君は忘れたかもしれないが、パリで僕らが、日華の戦争起る、という記事に欺かれた日、僕は君にドームで、ある無名歌人の歌を詠んだことがある。――大神にささげまつらん馬ひきて峠をゆけば月冴ゆるなり――そういう歌だが、僕はあのとき何ぜか涙が出て仕方がなかった。それに今日このごろ、いよいよ歌が事実になって来てみると、も早や涙も出ない有様だ。もう僕らも凡愚ながら無限の彼方にいるのかもしれない。あの無名歌人のように。
横光利一旅愁

 わざわざ戦争に何十遍と繰り出した未来派詩人の心持ちも、なんとか分かるし、アプリネールのことも好きなのであったが、戦争、という事象を抜きにしても、その小説に対するひたむきな態度と大局観のごときものからみて――横光利一は、嫌いな作家のほうが多い日本文学史のお歴々のなかで、なんとか、好きな作家だ。「旅愁」が良い小説であるのは、堂々と、泣く自らのことを、その情けなさをも、しっかりとさらけ出して書いているからなのだ、とおもう。

 モダニズムという西欧の潮流を取り入れて、西欧の小説の真似ごとを、と一概に云えば横光があまりにかわいそうだが――そのように、書いてきた横光利一という作家が、いざ、ヨーロッパの地に踏み出してみると、そこは想像していた場所とはまったく異なり、作家は、圧倒されてしまう。その感度があり、その動揺を、しっかりと自らの体験したものとして描き出す、まっとうな、誠実さが彼にはあった。感度がなければはじまらなかったのであったし、誠実さがなければはじまりもしない、しかし一方で、いわゆるカルチャーショックを受けて空を見上げてこの空が日本なのだ、小皿に盛られた塩をみて、これが日本なのだ、とめそめそと泣いている、日本人作家の姿とは、もちろん滑稽でもあらざるをえない。そのように、断じざるをえない。
 ウクライナ戦争が起こってから、ずっと横光の旅愁のことを考えており、当然ながら、そのようにあってはならない、ではいかにすればいいのであったのか、という自省をこめて、それをひとつの危機のように、私が受け止めている時に出会ったのが、イヴァン・ジャブロンカである。

 書法が歴史と社会科学の無視できない構成要素であるのは、美学的理由よりもむしろ方法上の理由によるからだ。書法は単なる「結果」の伝達手段でもなければ、研究が終わるやいなや大急ぎでかけられる包装紙でもない。それは研究そのものの展開であり、調査の本体である。
イヴァン・ジャブロンカ「歴史は現代文学である 社会科学のためのマニフェスト」真野倫平

 ジャブロンカの云うことは、戸籍謄本といった資料を用意して図書館の歴史資料室などにこもってみれば、分かるようなことである。いかに客観的とされる事実の集積を、各種の鹿爪らしい郷土資料にあたって獲得をすることができても、年譜でもつくるのではないかぎりは、それらの事実をどのような順番で並べるのか、どこにアクセントを置いて情報を書き連ねるのか。客観的事実、などというものは少なくとも人文知においては吹けば飛ぶような代物であり、であるのならばエクリチュール(書法)の問題と、歴史叙述の問題とは逢着をせざるをえない。
 そういうわけで、ジャブロンカは、ヘイドン・ホワイトのような歴史学舎を反ユダヤと一蹴をした上で、カポーティの「冷血」が走りとなったような、ノンフィクション作品をみずから物したりもしているわけであるが、換言すれば、エクリチュールをめぐる美的な判断とは、そのままなにほどか歴史的な重層性を胚胎せざるをえないのであり、書くこととはそのまま歴史と響き合い、繋がり合うことなのではなかったか――こう云ってしまうと、非常に危ういことになる、ナイーヴに過ぎ、語弊があるのは理解をしているつもりなのであったが。

 それでもなお、そうした立場を、ひとまずの落とし所として、私はひとまずは採らざるをえないように、感じさせられているのだった。それは少なくとも、芸術が餓えた子供の前で役に立つか、といったたぐいの、観念的な物言いよりは、物書きたちにとって、有意義な武器たりうる一つのものの見方であるかに、私には思われる。

 現実とフィクションのあいだには、ミメーシスに属さないもう一つの関係が存在する。フィクションは、現実を読み解くために必要な鍵を読者に与えることで、一瞬の瞬間的理解を引き起こすことができる。