本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「なぜ先生たちは僕たちを人間として扱わないんですか?」――漱石「坊っちゃん」、フランク・マコート「教師人生」

 挨拶をしたうちに教頭のなにがしと云うのが居た。これは文学士だそうだ。文学士と云えば大学の卒業生だからえらい人なんだろう。妙に女のような優しい声を出す人だった。もっとも驚いたのはこの暑いのにフランネルの襯衣を着ている。いくらか薄い地には相違なくっても暑いには極ってる。文学士だけにご苦労千万な服装をしたもんだ。しかもそれが赤シャツだから人を馬鹿にしている。あとから聞いたらこの男は年が年中赤シャツを着るんだそうだ。妙な病気があった者だ。当人の説明では赤は身体に薬になるから、衛生のためにわざわざ誂えるんだそうだが、入らざる心配だ。そんならついでに着物も袴も赤にすればいい。
漱石「坊っちゃん」

 「猫」の連載を抱えているなか、漱石の生きとし生けるものすべてに向けた、呪詛は止まらない。書き手の絶望の深さが心配になる迄に。だがこの作に臨む、筆を執るのが楽しくてしかたがないという作者の態度と同様に、作中のユーモアもまた、「猫」の(冗長な文体のせいもあるが)ねじれて、くぐもったそれとは一線を画して、明確で、闊達なユーモアへと昇華されているところが、「坊っちゃん」の読みどころといえよう。
 ――立川流のヘンな落語の追っかけを、二、三ヶ月に一回はホール落語を聴きにいく、という愚行をかつては、していたものだったが、「坊っちゃん」や「草枕」を読んでいたほうが、まだしも江戸の風に吹かれていることができる、そういう点もあるのが、本作の魅力である。
 一気呵成にユーモアとともに筆は進み、ユーモアと、そのユーモアがあったがゆえに効いてくる人情味とを湛えて、書き出しから最後まで、見事、というほかのない出来映えを有した作品である。
 ふりかえってみれば、教員を主役に据えて、学校を舞台とした小説のなかで、「生徒」の扱いというのは存外、むずかしいものであったのかも分からない。それを活き活きと書くのも、群衆のなかの一部だけを切り抜いて恣意的に描くようで、いやったらしくなりがちであったし、むしろ漱石のごとくに、記号的にというか、ノイズとして、もとより理解し合うことのできない、聞き分けのない子供として、描くほうが、書き手はまだしも誠実だったのではないか。
 フランク・マコートも基本的には、そのように書く。フランク・マコート。耳にしただけで、笑みが浮かぶようなアイルランドの小説家だ。「アンジェラの灰」、「アンジェラの祈り」の読者であったのならば、「教師人生」の表紙の、作家の肖像をみただけで、それがどのような小説であったか、おおよその検討をつけることができただろう。同時に、マコートは不思議な作家でもある。ジョイスの流れをしっかりと意識をしてくみ取りながら、同じようにジョイスの系譜にたつイタリアのズエヴェーヴォ、カナダのオンダーチェ、ドイツのベルンハルト、またはジョイス当人が有していたような、前衛的で、挑発的な、ゴツゴツとしたところが、マコートには一切ないのだ。意識の流れの手法によってインヒューマンなリズムを作り出すのではなく、寧ろそれを駆使して正統な、だれしも身に覚えのある人間味のごときものを、ユーモアとともに書く、むしろ穏当さこそが澎湃とした魅力となってしまう美しさ、そうした資質であり文章の技芸を、マコートはみせてくれるのだ。
 アイルランドからアメリカに渡り、典型的な、つまりは問題のたえないクラスの英語教師となった教員であり自身を描く、このような地の文章には、意識の流れの発展がたしかに感じ取れる。

 雨は学校の雰囲気を変える、すべてを沈黙させる。一時間目の授業が静かに始まる。一人か二人、おはようございますと言う。上着から雨のしずくを振り払う。彼らは夢の中にいるようだ。席に着いて待つ。誰もしゃべらない。授業に出なくてもいいですか、という要求もない。文句も挑戦も言い返しもない。雨は魔法だ、王様だ。気合いを入れろ、先生。自分のペースでやれ。声のトーンを落とせ。英語を教えることも考えるな。出席など取らなくていい。葬式のあとの雰囲気。今日はひどいニュースはない、ヴェトナムからの残酷な知らせもない。教室の外ではフットボールをやっていて教師の笑い声が聞こえる。雨が窓に打ち付ける。教卓に座り、時間をやり過ごせ。一人の女子生徒が手を挙げる。あのお、マコート先生、今までに恋をしたことはありますか? と言う。新米ではあるが、生徒がそんな質問をするときはその生徒自身が恋をしている、ということはすでに知っている。あるよ、と答える。
 彼女に捨てられたの、それとも捨てたの?
 両方だよ。
 そうなの? ということは一回以上恋をしたということね?
 そうだよ。
 ワオ。
 一人の男子生徒が手を挙げて言う、なぜ先生たちは僕たちを人間として扱わないんですか?
 わからない。そうだ、わからないなら、わからない、と答えるんだ。アイルランドの学校について話せばいい。いつも恐怖に怯えて学校に行っていた。学校が嫌いで、十四歳になって仕事に就くことを夢見ていた。以前はこんな風に学校にいた頃のことを思い出したこともないし、人に話したこともない。この雨が止まなければいい。生徒は席に着いている。上着をちゃんとハンガーに掛けろ、と言う必要もない。彼らは初めて僕という人間を発見したかのように僕のことを見ている。
 毎日雨が降ればいい。
 あるいは厚着が捨てさられ、胸や二の腕が見物の春の日々。窓から入るささやかな西風が教師や生徒の頬を撫で、机から机、列から列へと笑みを送り、ついには教室がまぶしく輝く。鳩や雀も、元気出してよ、夏が来るんだから、と甘くさえずる。恥知らずの鳩たちは、教室のティーンエイジャーにはお構いなしに、窓辺で交尾する。それは世界中で最高の教師による最高の授業よりも魅惑的だ。
 こんな日にはとびきり難しくて、とびきり素晴らしい授業ができそうな気がする。どんなに悲しいことでも抱きしめ、眺めてやれる。
 こんな日には西風、胸、二の腕、微笑み、夏を伴ってバック・グラウンド・ミュージックが流れている。
 もし生徒たちがそんな音楽のような作文を書いてくれたら、彼らを普通高校へ送ってやろう。
フランク・マコート「教師人生」豊田淳訳

 物語が展開してゆくシーンではなく、「印象派」的な箇所から引いたが、意識の流れに寄り添ったような、自由な散文の流れのなかで、マコートの文章は流麗と穏やかであり、濃密にポエティックでもある。「僕」の一人称で、書き手が主人公の一人称小説、自伝的小説でありながら、なによりもこれがマコートの小説、であるのは、随所に実際に起こったであろう自伝的エピソードを挿入しながら、書かれたその瞬間、その一瞬にしか捉ええぬ文飾、そしてまたそのように書くのが適切であろうと書き手をして直観せしめる文体によって、このテクストが構成されているからにほかならない。老人であるマコートと若かりし日のマコートとが交差をする、その文章のなかから浮かび上がるのは、時に毒々しく時に穏やかな顔をみせて惜しまない、マコートそのひとであり、人間一般なるものの不可思議な、性状なのである。