本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

文学賞を獲って起こったこと――鹿毛雅治編「モチベーションを学ぶ12の理論」、アルフィ・コーン「報酬主義をこえて」、西村賢太「雨滴は続く」

 小説家になどなったところが何になるのだったか。
 実際にはどうなるのか? はれて新人賞を受賞をし、賞金が五十万程度、受賞作が単行本化されて十万二十万程度の印税、以降大体一枚五千円程度の原稿料(源泉徴収で一割抜かれる)で芥川向けの中篇を書かされ、もちろんきょうび芥川を獲ったところが本など三千部売れれば万々歳で、……と、いったことではない、そうではなく、ガキのころから文章を書いてきた、文字にしかすがるものがなかった、その人間にとって、小説家になどなったところが……という嗟嘆が、ふとわいてくる季節があった。
 発端は地元の文学賞なるもので賞を獲ってしまったことである。鬼生田貞雄というおよそ私以外のだれも読んだことがない、滝桜という桜が有名な福島県は三春町生まれ、私が今も在住をしている郡山市そだちの、優れた作家についての、初めてにして現状唯一の評伝を書き、それが賞を獲ったものらしかった。もちろんそれで、なにが変わる、というわけでもない。公金から賞金五万円也を頂戴して、その金などすぐと新宿のどこかへ消えていったのだったし(風俗とかではないです)、選評においても、一時期それなりに好きでサイン本を所持している古川日出男さんによる、「読んではいないが、つまらない作家なのではないか」という碌でもない、評者としての無責任きわまりない評言を拝領しただけのことだった。古川さんの言う「メガノベル」よりも鬼生田貞雄の「黒い羊」「わっぱ騒動」のほうが、これは変な含みはなしに、よほど「メガノベル」なのであったが……。

報酬

筒から賞状(報酬)を取り出そうと躍動をする筆者

報酬

 愚かしいことに、私は小説に対して、不審を抱いたわけではけしてなかった。私の小説に対するある種の信仰は揺るぎのないものであり、つまりはどうしようもない、その信仰の崩れた時に私もまた崩落をして(クダラナイことに)どこぞへか消えてゆく性質のものだったのであったから。
 だとしたのならば一体、この時の私に起こっていたものとは何であったのか。

「報酬がやる気を高める」というのはわれわれの通念であり、いわば常識である。しかし、もともと意欲的に取り組んでいる活動に対して報酬を与えるという条件を提示すると、報酬が与えられなくなった後の、その活動に対する内発的動機づけが低下するというアンダーマイニング現象(鹿毛 1995)が心理学実験によって相次いで見出されたのである。たとえば、「絵を描けばご褒美をあげる」という約束の下で絵を描いた幼児は、自由時間に自発的に絵を描かなくなった(略)。反対に、ご褒美の約束はされなかったが結果的にご褒美をもらった子どもたちにはやる気の低下が見られなかったことから、ご褒美それ自体ではなく、「ご褒美を事前に約束すること」が絵を自発的に描く意欲を低めたのだと考察された。つまり、子どもが「ご褒美目当て」で絵を描く体験が内発的動機づけを低めたのである。
 報酬が自発的なやる気を損ねるという一連の実験結果は、われわれの常識を根底から覆すものとして驚きをもって迎えられた。のちに、報酬のみならず、監視状況、期限の設定、評価教示といった外的な拘束によっても同様の現象が見られることが明らかになる。
鹿毛雅治『好きこそものの上手なれ』鹿毛雅治編「モチベーションを学ぶ12の理論」収録

 附言をしておくと、その福島県文学賞というのは、募集要項にも賞金が設定されている旨が記されていないという、悪評がいろいろと聞こえてくるかなりヘンな賞であったから(「文学」なのだから賞金があることを明示しなくてもいいだろう、というような、ねじれたプライドの高さが芬々としてあるのだ……)、私は報酬としての賞金を、知ってはいなかったわけだ。しかし、どうであれ賞とは賞罰でいっても「賞」なのであるから、それ自体が褒賞、ということにはなっていただろう。では果たして、なぜ報酬が設定されることは、内発的動機づけ、つまりはモチベーションを低下させるのであったか。

 報酬として使われるものには大抵どこか悪いところがあるなどと言いたいわけではない。風船ガムでも金銭でも、愛情や心遣いでも、それ自体として悪いわけではない。報酬自体は、無害な場合もあるし、必要不可欠な場合もある。私が問題にしたいのは、これらのものを報酬として使うというやり方なのである。人が欲しがったり必要としたりするものをある条件のもとで提供し、それによって人の行動をコントロールしようとすること、そこに問題があるのだ。
アルフィ・コーン「報酬主義をこえて」田中英史訳

 私たちはどうであれ、労働をして賃金を得る、得なければならない。それはだれかに使役をされるということでもあり、そしてそれは、この世に生まれた以上はしかたのないことなのであったが、「報酬」や「モチベーション」を概念として、さらには自分の本当にやりたいこと、という座標をひとつそこに加えた時に、かかる議論は見て取りやすくなっただろう。
 つまらぬ小さな文学賞なぞを獲り、「文化の日」に公民館のような場所に赴かされ、そこで県知事やら、県議会議員やらの話を聞かせられ、横の席には発達障害の子どもについての日記のような随筆で賞を獲った、平たく無害なわりにクソ面倒くさそうな淑女がいるだけの「授賞式」、このようなもののために私は神保町で古書を購い、近代文学館に複写を求め、「鬼生田」にかかわるものであるのならば地名辞典であってすら、囓りついてきたのであったのか。私のことを襲ったのは、すべては、賞の名のもとで統制をされ、管理をされていたのだったか、という無力感であった。そこには喜びもなければ、誇らしさもなく、――一抹はそれがあったのだと認めたところが、基調にある、根底にあるのは、惨めな心地であり、持続的な暗い気分であり、その後、文章を書くことの意義をすこしく薄めさせるほどの沈鬱な情動であったのだ。
 当事者である私にしか理解できない、実存的な問題であったろうが、――とにかく、なんと賞を獲ったことでこそ、そのようなことが一個人のもとには、起こるのである。

 そもそも、ある人間が他の人間をコントロールしている場合、両者の関係は平等ではありえないと言えるだろう。報酬(あるいは罰)の使用はこういう不平等があるから容易になるのでもあるし、同時にその不平等を永続化するようにも作用する。この事実の持つ意味は、当然、当事者ふたりがおとな同士の場合と子供の場合とでは違うが、この事実自体はよく考えてみる必要がある。もし、だれかに報酬を与えれば、与える側がより大きな力を持っていることを強調する結果になることに疑問があるならば、ちょっと次のような場合を想像していただきたい。隣の人に、町に出るとき車に同乗させてやるとか、家具を動かす手伝いをしてやるとかしたときに、相手がお礼として五ドル出そうとする場合である。もしそれが侮辱だと感じられるのなら、なぜそうなのか、またその金の意味するところは何なのかを考えてほしい。そしてこうした憤慨の念は与える側ともらう側の立場の違いから来るのだが、それは立場が逆転して、われわれが報酬を出す側に立ったときにもしっかりと心にとどめておきたいものである。
アルフィ・コーン「報酬主義をこえて」田中英史訳

 かくして、その時に私のもとに起こっていた屈辱的な感情や、それに由来をした無力感の感情については、おおよその説明が成されたといってよいだろう。私はこれらの文章に出会った時に感動を覚えた。立身出世やエゴイズムといった簡単な情動によってのみ、人間の心理の説明がつくものではない、というよりは人間の醜い心の動きとは、かくも複雑なものであったのかと、うなだれたようになり、そうして理解をするということ自体は、快活な知の作用ではあったのだ。
 芸術の分野にかぎってみても、報酬は悪いように作用をする、という。

 創造性の研究で指導的な地位を占めていたテレーザ・アマビルが二つの研究を発表して、報酬反対論を確立した。第一の研究によると、若い作家たちに、詩を書けばどんな報酬(金とか名声とか)が得られるかわずか五分間だけ考えさせた場合のほうが、そうでない作家たちよりも、作品の創造性が劣っていることが証明された。作品の質は彼ら自身がそのちょっと前に書いたものよりも落ちていた。
アルフィ・コーン「報酬主義をこえて」田中英史訳

 そんなものか、となんだかクスリと笑ってしまうのであったが。そんなものか、であっても、しかし書くのであったのならば書くしかないのであったし、時としては報酬が目の先にちらつく、ということもあっただろう。
 さて。どの道、はっきりとしていることがある。どうであれ文章を書いている、という時点で、世界からもっと大きな意味での、報酬とよばれるほどの報酬など、期待はできはしないということだ。なんであれ書くということの先に報酬らしき報酬などありはしない、あるわけもない。

 そして蓮田は、貫多が尚も無言でいると、
「つまり、一応の水準には達しています。これはこれで文芸誌に載っていても、決して不思議ではないレベルだと思います」
 と語を継ぎ、少し貫多の気持ちを引き立ててから、
「でも、私が読みたかったのは、こういうのじゃないんですよね……」
 一気に突き落としてきた。
 で、これに対し、貫多がようやく絞りだしたのは、
「はあ」
 と云う、腑抜けたような一言であった。
 実際、それしか他に言葉が出てこない程に、まだこのフレーズは繰り返して述べておくが、“根が異常に自己評価の高い質にでき過ぎてる”彼は、俄然、妙なショック状態に陥っていたのだ。
「……だって結局、これは過去の話じゃないですか。歴史小説でもないのに、過去に目を向けたことなんかを今さら書いても仕方がないし、正直なところ、まだどこの誰とも分からない北町さんの、その若い時代の失敗談を興味を持って読む読者というのは、同人雑誌ではどうだったか知りませんよ。でも、少なくとも『群青』には一人もいないわけです」
「…………」
「ですから私、最初にお会いしたときに言いましたよね。あまり、私小説にこだわらずに書いてみて下さい、ということを」
「……はあ」
「若い世代ではなく、北町さんのような四十近い年齢層の人が、どういう“現在”を切り取った物語を紡がれるのかを、非常に楽しみにしていたんですがね」
「…………」
「こういうのじゃあ、ないんですよね」
「…………」
「三十枚、っていう枚数が難しかったのかな……『文豪界』のあれは、何枚だったんですか」
 呆然とする余り、この問いもウワの空で聞き流していると、蓮田は一寸その貫多の顔を覗き込むようにして、
「『文豪界』の、あれですよ」
 と、再び尋ねてきた。
西村賢太「雨滴は続く」

 ここに書かれた編集者を無能であると読み取れなかった人間を、私は信用をしない。
 「“現在”を切り取った物語を紡がれる」といったところに、いちいち、意図のおかしみがある。「あれ」と言って、眼前の作者の過去作のタイトルをさえ、「群青」、つまりこの講談社の編集者は記憶をしていないということになっており、私小説家の筆致であるのだから、すべてを信用するのは危険としても、おおよそ日本の今の出版社の編集部など、このようなものであろう。というよりも、おそらくはもっと酷い。「文藝」の編集部など、四人程度のチャラチャラとした若者が群れ集まっているだけの文芸サークルのようであり、すこし、こう言ってしまうと「本屋大賞」の層とさして変わり映えもしない、生ぬるい寄り合いではないか。
 かつての、作家よりも才気ある編集者、など、この日本の何処にも残っていはしない、どうせ残っているわけもないのだ。
 どこをどう歩んでも、地獄は地獄なのであり、それでもなお書くということの、信仰のたえることのないのは、彼らにはもちろん、行政にも、あらゆる誘惑にも、――愚かしいことに、私の書くという意志は、統制の成されるものではない、らしいのである。ただただ、さらなる地獄にむけて歩みをとる、「小説家」などという職業にあくがれも輝かしいイメージのひとつまみも有さずに、ただ「小説」らしきものを書いていきたい、願いのあるばかりなのだ。
 それにしても、著者の急逝によりこの作が未完に終わって、講談社の編集部は、どっと安堵をしたことだろう。

筆者近影 授賞式場前で、快晴の文化の日に。