本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

草野心平記念文学館にゆく――伊藤整「若い詩人の肖像」を添えて

 美術館で絵を眺めているうち、カタルシスに浴し慣れたためもあってか、あるいは銀座で画廊めぐりなどしているうちに「どうせ手に入らない絵なのだから……」という要らぬ自意識を身につけたせいか、――それでも結句美術館がよいは止めることはできないのであったけれども、かわりに文学館に行くことが、頻繁となった。
 入谷の、樋口一葉の文学館のひっそりとした照明の静けさ、美しさ。
 漱石の記念館の、雑司ヶ谷霊園で見た墓と同様の、壮大なアトラクション感。
 地元にも久米正雄記念館があり、久米の開く句会に参加していた、横光利一の名前がある資料などに、これはいいものを見付けた、とひとり愉悦を覚えていた。

 いわき市の山中にある、草野心平記念文学館にゆく。
 連れの運転する車中、うねらうねらとどこまでも山道が続いていく。
 三方が山に囲まれていき、三方がいよいよ四方となって、道が次第に細まっていくその先に目指す文学館がある。
 カーナビがなければ到底たどり着けない道筋である。

 アヴァンギャルドというか、モダニズムの流れのなかにある詩は、十年も前に食傷気味になって、それ以来、読んではいない。
 寧ろ藤村や室生犀星の、木訥とした風合いの良さを、しっかりと良さ、として感得できるよう、目に慣らしているさなかに、「左川ちか全集」の刊行が起こった。これが云うまでもなく素晴らしく、伊藤整好きの私はもちろん、「左川ちか資料集成」も所有しているのである。
 朔太郎は好きであるし、佐藤春夫などはいまでも好き、なのであろうか。
 およそだれでもいいのだけれども、未来派のマニュフェストの通りに作ったようなあの萩原恭次郎はもちろんとして、村野四郎だとか、北園克衛の、ギラギラと尖った詩が、もうあまり、受けつけない、そういうのは飽きたのだ、という風にして(小説も読んだりして、退屈をし、それでも北園克衛、と開いた本に名前が挙がると少しく胸がときめいたり、ここら辺、どうもヤッカイだ……)。
 話が逸れた。
 田中冬二という優れた詩人よりも、草野心平は、読まれているか否かはともかく、知られている詩人であろう。蛙の詩人、というふうにして、なのだけれども。久米正雄が「学生時代」の作家である、というのはそろそろ忘却されつつあっても、蛙、のほうがどうも強い。
 伊藤整はこう書いている。詩の掲載されている雑誌を開いて、読みながらに、今後の自分の行き方を慎重に案じているシークエンス。

 以前には私は、白秋、露風、惣之助、光太郎、朔太郎などの作品を傲然として批判し、点をつけ、その中から一二篇を僅かに自分のノートに写すという光栄を彼等に与えていた。今では私は、そのずっと下っ端の草野心平などという変な名前の男をも先輩と見なければならないのである。草野心平というのは全然誤魔化しのでたらめで人を驚かすような詩しか書いていない奴だ、と私は考えた。たとえば彼は、「詩壇消息」の四段組の一番下の欄に「冬眠」という題の詩を書いていた。題は「冬眠」で本文は●という黒丸一つである。蛙のことばかり詩に書く男だから、「冬眠」とは蛙の冬眠のことなのであろう。こんなハッタリが横行し、室生犀星がたまたま身辺に集まった若い者を天才の一群であるかのように身勝手に推薦するような詩壇では、情実や排斥や仲間ぼめや序列などということが横行しているにちがいない、と思い、私は詩壇というものを恐れた。
伊藤整「若い詩人の肖像」

 私の草野心平に対する評価は、ここに尽きている。モダニズム詩をもてはやす時の潮流がなければ、草野心平が世に出ることはなかった、大方はそのようなものであろうと、碌に当人の著作を読まないうちから、思っている。
 伊藤整の書き振りは、「幻滅」の時のバルザックに近しいものを有していながら、そのようなともすれば醜い打算をする、してしまっている「私」に対して、自覚的である。「詩壇というものを恐れ」るのは、詩人同士の繋がりやなれ合いによって、自らの詩心までが穢されるのではないか、というやや過剰な(のちの伊藤整のことも加味して批評家的な、といっても勿論よい)自意識ゆえにほかならない。あくまでも自らの「詩」を守らんがために、虎視眈々と自らの行く末を、彼は、雑誌の上に占っているのである。
 であるから、江藤淳の「なぜ研究所が舞台になるか分からない」といった作品(「氾濫」)への批判や、伊藤がジャガーに乗っていたことをいやに気にかけているような作家への批判は、的外れなそれである。
 私が敢えてこれをここで持ち出すのは、本来であったのならば、江藤こそが、伊藤整の「生の三部作」、とくに「氾濫」と「発掘」について、高い評価をしなければならない立ち位置にあったためだ。
 江藤も論じた漱石の「道草」やなによりも「明暗」にある、人間の醜い心の動き、利己心のごときものを「若い詩人の肖像」において伊藤整は捉え、さらにそれを性の問題へと拡大をして、次作に大傑作「氾濫」を生んだのである。
 こう云ってもいいだろう。
 世俗の事象を、作家的なというのでもない、怜悧な視線から捉える、ということと、その書き手自身が世俗に埋ずもれてしまった、ということとは別の問題である。銀座に愛人を作り高級車を乗り回す、というかたちで、世俗に埋ずもれながらであっても、世俗を観察をする、詩が掲載された雑誌を読みながらであれそれをする、というかたちであれ、愛人との交渉のうちに醜さをふとみてしまう、という仕方であれ、それは可能なのであり、「俗物」へのアレルギー的な反撥ゆえ、江藤にはそれが、みえることがなかった。江藤の反撥も反撥で、ゆえなきものではなく、痛ましい彼の、道筋がそこにあったのであるが……。

 たどり着いた文学館は、資料の詰められた研究施設然としたところを感じさせない、アミューズメント系の文学館であった。
 建築家の名前は、インターネットで検索しても出て来なかった。
 一面をガラス張りとして、借景された深々とした緑色の山並みは、慥かに、この立地でなければ再現もできない眺めであり、館内の作りも、悠揚としており、展示室に入ると蛙の鳴き声がどこかのスピーカーから一帯に、響いていて、草野心平が営んでいた居酒屋を再現した一角などもある。
 そのようにして、文学、は土地を買い、建築物となり、残っていったのであったか、――。
 「文学」。
 坂口安吾の堂々たる碑などを見上げていると、それが一体なにであったのか、定まらなくなることがある。
 無頼派、の作家が、あのような碑を建てられて、いいものだったのか、どうか。
 いや、新人賞なぞに向けた原稿をタイプをし、クダラナイ作家ばかりが寄り合いをして、選考委員をし、「文学」の名の下に講演会などの事業をしては、糊口を凌いでいる、そのような手合いに、では自分も加わりたいというのであろうか、とわが身を顧みるだに、それが、それというのは「文学」が、たちまちおぼつかなげなものとして、感ぜられてくる。
 ただ小説を書きたいだけなのであった。
 ただ、自らが小説とする小説を書く、その営みのみが可能でありますように。
 いかに世俗のなかに、この全身が汚れても、なお、その祈りの祈りでありますように。

左川ちか全集

左川ちか全集

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