本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「混沌の中に秩序を発見すること」――メアリー・ウォーノック「想像力」、岡野憲一郎「快の錬金術」など

 日本の純文学、といった時、ステレオタイプとして連想される性質の文章をひとつ、引いてみよう。この場合ステレオタイプに過ぎる、のであったが。

 彼は剥げた一閑張の小机を、竹垣ごしに狹い通りに向いた窓際に据ゑた。その低い、朽つて白く黴の生えた窓庇とすれ/\に、育ちのわるい梧桐がひよろ/\と植つてゐる。そして黒い毛蟲がひとつ、毎日その幹をはひ下りたり、まだ延び切らない葉裏を歩いたりしてゐるのであつたが、孤獨な引込み勝な彼はいつかその毛蟲に注意させられるやうになつてゐた。そして常にこまかい物事に對しても、ある宿命的な暗示をおもふことに慣らされて居る彼には、その毛蟲の動靜で自然と天候の變化が豫想されるやうにも思はれて行くのであつた。
 孤獨な彼の生活はどこへ行つても變りなく、淋しく、なやましくあつた。そしてまた彼はひとりの哀しき父なのであつた。哀しき父――彼は斯う自分を呼んでゐる。
葛西善蔵「哀しき父」

 なにが、「斯う自分を呼んでゐる」だ。
 そう、読者は笑う、笑うのであるし、作者とて笑わせるつもりで「哀しき父」を持ち出しているわけである(そこまで読み取れないと、日本のこの手の暗い小説は、いつまで経ってもただ鬱屈した暗い文章にしか映らないから、面倒くさいのだけれども)。
 つまり、物語の技巧として、きちんと「効いている」のであったが、「効いている」ことも含めて、何を断定をしているのだ、というおかしみが、ここにはあり、ひいては日本の作家たちはなぜ淀み、暗く、俯いているような人々が多かったのであったか、と首をかしげさせられたりも、するのではある。「哀しき父」が笑いへと昇華されるためには、なにほどか、その笑いを笑いたらしめる風土のごときものが作用をしていたはずだ、と云ってもいいだろうが。

 人は本来、自分にとって心地よいこと、自分の報酬系が興奮してくれることは、絶対的に肯定するものである。自分はこれに生きるのだ、と思う。というか、感じる。これぞ本物、という感じ。自分にはこれしかないし、これのない人生は考えられない。仕事をしていても、人と話していても、最後はそこに帰っていくことを前提としている。心を癒しに戻る自宅や棲家と言ってもよい。
 もちろん心地よいことが同時に道徳心に反していたり、他人にとって害悪であったりするかもしれない。また心地よさが同時に不快感を伴うこともある。するとその快楽的な行動を全面的に肯定することは難しくなるであろう。それを隠したり、何度もやめようと試みる場合もある。しかし逆にそのような問題がないのであれば、その行動はその人にとって疑うべくもない肯定感とともに体験されるのだ。
 たとえばもう何十年も喫煙を続けている人を考える。幸い深刻な健康被害は起きていない。彼にとって喫煙は安らぎであり、生活にはなくてはならないものだったとしよう。周囲でも喫煙をとがめたり後ろめたさを感じさせたりする人はいない。私が若い頃の昭和の世界は、皆がどこでもタバコを吸い、通学のための汽車の中は、向こうの端が見えないくらい、タバコの煙でもうもうとしていたものだ。
岡野憲一郎「快の錬金術」

 それが悪癖であろうがなんであろうが、快楽がおのが快楽であるが以上、人は自らの快楽であり習慣を、肯定せざるをえない。まさしく喫煙の習慣のようにいかにみっともないものであろうとも、それを手放さずに、いっけん醜い色に染まっている自らをさえ、肯定せざるをえない。
 私も
「煙草を吸う金でなにを買えたと思う」
 といういわれなき疑義に対して
「御蔭様で煙草が買えました」
 と返したことがあったものであるし、
「なぜ禁煙をしない」
 という疑義に対しても
「禁煙はしょっちゅうしているよ。禁煙はいいものだぞ。一時間、二時間、三時間と禁煙の時間が長くなるにつれて、煙草がより美味しくなる」
 とクレバーに返答をしてきたりも、したものだった(有楽町の交通会館でランチをとっている時のことだった)。
 そして、「御蔭様で煙草が買えました」と私が発する、その言葉、その手つきとおよそ同質の身振りのうちに、(もっと文学的にしっかとした構えの上では、もちろん、あるが)「悲しき父」という自己肯定の語が、ぴしりと、将棋の駒のように擱かれる。
 どうであれ書くということは、肯定なのだ、といえる。どのように拗ねて、心いじけ、文学などどうだっていいとそこに記すのであってさえ、そこでは習癖と、快楽とに紐づけられた、自己肯定が、含まれている。
 そもそもが、もとは「文学」そのものが不良のはじまりの如き、「悪癖」であったのだが、今はそのようにして扱う風潮もないまでに、文学そのものが退潮をしているわけではあったが――。
 さて。では、この本についてはまた別で触れるかもしれず、今回はおもに第二章のカントを概観した部分に触れるのであったが、

 合目的性の法則は、われわれが特定のパターンを信じなくてはならないとするものではなく、何らかのパターンが存在すると信じるということだけを意味すると、強調しておかねばならない。さらに、その法則を信じ、それにもとづいて調査を行うということは、自然が何らかの確定したねらいを持っているとか、自然が何らかの確定した目標を意図して創られたとか、われわれが信じることを意味するものではない。
 この法則を導入したあと、カントは自らの説に重要な考察をつけ加えている。観察された事実や出来事がうまく適合するようなパターンを見つけることに成功すると、この発見はわれわれに特殊な「快」を与えてくれる。したがって、快の概念は、やや遠回しな仕方ではあるが、合目的性の概念と結びついている。
メアリー・ウォーノック「想像力 「最高に高揚した気分にある理性」の思想史」高屋景一訳

 メロディの例を使うと、カントの言わんとしたことがわかるかもしれない。もし[耳にしたものを]単なる雑音ではなくメロディとして認識するなら、われわれはそれが何らかの形を持っていると知覚していることになる。このことは、われわれが自分に対してそれを、それが象られている通りに提示していることを必要とする。これが想像力の機能である。しかし、このとき、想像力はいかなる個々の概念からも自由である。それが規則に適合するとまずはじめに知ることによってメロディを聞き取ったはずはない。音の中にパターンを聞いたに違いない。想像力がなければ、単なる音だけだっただろう。想像力は、いわば音を「見苦しくなく」し、そうすることで、混沌の中に秩序を発見することに満足の感覚を経験するのである。
同上

 ひとまずここでは快楽が、想像力であり美の問題とリンクをしている。ある音楽を聴いてその音楽に感動をするのは、音楽自体の力もあれば、聴き手の想像力の作用もあるのであり、感動とは相互作用的に「つくられる」。同時に、その感動が強ければ強いほどに、そこには「快楽」がかかわってくる。なぜならばその音楽の感動を「つくった」のは聴き手自身でもあるためだ。ハロルド・ブルームに「反読」という(文芸理論上の)概念があるが、人は本を読む時に、その本には書かれていないことを批判的に作り出したりし、それこそが「強い読み」となったりする。あるいは楽器の演奏にある程度習熟した人間が、ふと、楽譜の通りに演奏をするのではなく自在にアレンジを加えたりする際、その人の顔は得意げであったり満足げになっているであろう、おおよそそういうことを引用箇所は言っている。

 「哀しき父」が「哀しき父」であるためには、それを可能たらしめる美的な判断力、想像力が必要であった。または、それが小説を一本、書くための動機となった場合もありえたはずだ。
 表現者たちは自らの人生を切り売りをして生きる、のであったとしたのならば、生活という今そこに生起されているものであれ、目標として掲げているものであれ、美的なる何かに、自らが快楽を見出しており、そして、他人にとってもそれが快楽たりうると、確信をしているからにほかなるまい。
 あるいは、いかに書くという悪習を身につけ、文学に拘泥をしていようとも、いざ原稿用紙と向き合った時に、行き詰まるというか書いていても楽しくない、まさしく「快楽」を覚えられない時というのがあるわけで、そうした時というのは自らの書いている文が、単調に堕していると、自身で気づいているものなのである――、つぎつぎに喋り続けていたいような、脱線をし、跳躍したり、書いている途中でつぎの新しい展開をおもいつく、それこそが「書く」ことの「快楽」であったとしたのならば、それはまさに上に引いたメロディの例のように、書いたものによって書くことが生まれるという、よき循環、自ら作り出した相互作用がテクストの中に起こっているからであろう。
 こう云ってもいいだろう。「書く」ということはそもそも小説等の執筆時にかぎらない、日常的な動作であって、表現者たちとは自前のコードや快楽を、見つけ出した者たちの謂いなのである、と。
 一日にかならず原稿用紙で十枚を書いた処でやめる、というスタイルを持っていた日本の小説家や、「ダンスするように書かれた文章が私は好きだ」と書いていたブコウスキー。この手の作家の創作論、スタイル論は、枚挙にいとまがないと云っていいだろうが、いずれもが、だれかに習ったわけでもない、喫煙の習慣のようになかば自然に身につけてきた、自前の「悪癖」なのである。
 その点、村上春樹にはしいて「悪癖」と名指しすべきような、短所といおうか、日本の自然主義的な陰翳、文学的なだらしのなさ、はない。それどころか、彼の小説には「正しさ」というモチーフが出て来る上、彼当人が、まさしく「哀しき父」式の、日本の陰湿な近代小説が嫌いで翻訳物や英字のテクストをよく読んでいた、という作家である。無頼派的な、作家といえば不健康というイメージを払底しようとするがごとくに、毎日本格的なランニングに取り組んでいたこの作家。

 今のところタイムはさほど問題にはならない。ただ黙々と時間をかけて距離を走る。速く走りたいと感じればそれなりにスピードも出すが、たとえペースを上げてもその時間を短くし、身体が今感じている気持ちの良さをそのまま明日に持ち越すように心がける。長編小説を書いているときと同じ要領だ。もっと書き続けられそうなところで、思い切って筆を置く。そうすれば翌日の作業のとりかかりが楽になる。アーネスト・ヘミングウェイもたしか似たようなことを書いていた。継続すること――リズムを断ち切らないこと。長期的な作業にとってはそれが重要だ。いったんリズムが設定されてしまえば、あとはなんとでもなる。しかし弾み車が一定の速度で確実に回り始めるまでは、継続についてどんなに気をつかっても気をつかいすぎることはない。
村上春樹「走ることについて語るときに僕の語ること」

 快、美、コードやスタイル、あるいは日本近代文学の独自な書き言葉と、素材だけを散らかしてまとまりもない記事へとしてしまったかもしれない。だが、それらの問題について、考える時、単にそのうちのひとつに目を向けるのではなく、快の問題や、美の問題、ほかの部位の歯車やネジが緩んでいるのだったかも分からないのであったから、このように広く話柄を展開しておくのもさして、無駄にはならなかったはずである。煙草だけはけっして止められないけれど。