本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「帝国文学も罪な雑誌だ」――村上春樹「風の歌を聴け」、夏目漱石「坊っちゃん」

 今、僕は語ろうと思う。
 もちろん問題は何ひとつ解決してはいないし、語り終えた時点でもあるいは事態は全く同じということになるかもしれない。結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎないからだ。
 しかし、正直に語ることはひどくむずかしい。僕が正直になろうとすればするほど、正確な言葉は闇の奥深くへと沈みこんでいく。
 弁解するつもりはない。少くともここに語られていることは現在の僕におけるベストだ。つけ加えることは何もない。それでも僕はこんな風にも考えている。うまくいけばずっと先に、何年か何十年か先に、救済された自分を発見することができるかもしれない、と。そしてその時、象は平原に還り僕はより美しい言葉で世界を語り始めるだろう。
村上春樹「風の歌を聴け」

 書くことについて書く、という構図はいつの時代、どの形式でも試みられてきたありきたりなそれである。たしかに、ここではヴォネガットなどから採って来た、とされる、文体の美しさはある。この手の翻訳調の文章を書いた先駆者には片岡義男がいたが、書かれていく内容と比すれば、さすがに村上春樹のほうが、すくなくとも片岡よりは増しである点について、いかな春樹嫌いであっても認めざるをえないだろう。文章の線はまだか細いが、この時点ですでに、書き手の文体はすでにこの書き手の自前のものとして、作られ始めている。
 その文体は日本文学の自然主義や私小説などにあるような、陰湿な文体への反発を含みながら発生したが、日本において「書く」ことをしながら、「日本」の「文学」と呼ばれる地平に参与をする、ということは可能であったのだろうか? すくなくとも、この作においては、一面的にはそれが可能であったとしなければならない。彼はこの本が本として刊行されるまでは、素人の書き手であったのだったし、あくまでも「僕」が「語る」ということに比重があるがゆえに、その言葉とはまだ、「文学」に汚れていはしない、その後の書き手の行き方をみても、彼はついぞ「文学」的になることはなかった、ととることも可能である。同時に、「救済」などがけして訪れはしなかったであろうと、算段をしつつなのであるが。
 一体に「文学」などというもののどこにあるわけでもない。
 ひとが「文学」と呼ばわる時に、それは権威づけや、装置としてのなにか、あるいはそうとでも言うほかなくして文学、と口にしているだけなのではなかったか。

 一番槍はお手柄だがゴルキじゃ、と野だがまた生意気を云うと、ゴルキと云うと露西亜の文学者みたような名だねと赤シャツが洒落れた。そうですね、まるで露西亜の文学者ですねと野だはすぐ賛成しやがる。ゴルキが露西亜の文学者で、丸木が芝しばの写真師で、米のなる木が命の親だろう。一体この赤シャツはわるい癖だ。誰を捕まえても片仮名の唐人の名を並べたがる。人にはそれぞれ専門があったものだ。おれのような数学の教師にゴルキだか車力だか見当がつくものか、少しは遠慮するがいい。云うならフランクリンの自伝だとかプッシング、ツー、ゼ、フロントだとか、おれでも知ってる名を使うがいい。赤シャツは時々帝国文学とかいう真赤な雑誌を学校へ持って来て難有そうに読んでいる。山嵐に聞いてみたら、赤シャツの片仮名はみんなあの雑誌から出るんだそうだ。帝国文学も罪な雑誌だ。
漱石「坊っちゃん」

 当惑をさせられる、またはこのようなことがありえたのかと、卒然と頭を抱えさせられるのは、イギリスを目の当たりにして来た漱石のかかる筆致は、当時の彼の周辺にいた西欧かぶれの作家たち、詩人たちの外部に、悠揚として彼が立っていた、カラリと乾いたような土の地面の上に立っていたのであったか、というその点である。フランスの自然主義をまったく見当外れの仕方で受容をし、ロシア文学のドストエフスキーのような小説を書かねばならない、と言いつつも犬のポチを書いたような小説をしか書けずに作家を辞めていくような、「日本の小説家」、「日本文学」のなかに、仮に、漱石もいたのであったとしたところが、それはその外部から自らを自省する視点をも、彼が有した上でのことではあった。
 くりかえそう。「文学」とは一体なにであったのかといえば、――険が立つ言い方をせざるをえないが――どの世界であれ、「文学」を構成する多くは、碌でもない文章であり、何々賞といった制度のごときものであり、インテリ同士のそれらしいお喋りのごときものに過ぎない。あるいは日本の場合にはそれは、西欧の文学や人文科学を見本として立てた上での、模倣の来歴なのであり、拙い模倣をしてはそこに「ポストモダン」だのという弁明をそれらしくちらつかせていれば、それが「文学」なのだ、小説なのだ、そういうことに爾来、なってきたわけである。
 じつに今でも多くの作家たちは自己言及的に、書く、ということについて書くことをするが、そのうちの幾つが、純粋に「書く」ということを書くことに成功をしていたのであったか。「文学」やそれに付随をしたあらゆる衒学的なコンテクストを含ませず、「書く」ことは可能であっただろうか。もしも可能であったとしたのならば、そのように書くということは、「帝国文学も罪な雑誌だ」と文学を笑い、いともたやすくつま弾く、その手つきとともに、であるのに他なるまい。