本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「どこにでもある、ありふれた話だ」――杉本博司、ペソア、アルトー

 恋人にモノでも贈ろうかと銀座の街をふらつくが、宝飾店に入るほどの大上段の心意気でもない。室生犀星が書いている、「女の人にものをおくるということは、たいへん嬉しいものである」(「随筆 女ひと」)というような得手勝手な欲求を、みたす分だけのほんの少しのモノでよかったのであったが。と、たとえば、そのようにして街場を歩いていると、あらゆるモノは銭金で測られ、自らの身の丈どころか内心にある何かであってさえ、相対的な規矩のもとに、さらされるのだ。消費社会論をぶっているのではない、そうではない、原初の感覚のもとでは、すべてが相対化される。海が、劇場のスクリーンを迸る銀色の光が、銀座の繁華な街並みを根こそぎ、呑み込んでゆく時。
 名のあるエステティシャンのサロンとなっているビルのなか、その原初へとひとたび還りつく時。
 プリント一枚の解説にはこのような導入が記されてあった。

 演劇史は文明史と共に始まる。人類意識の誕生と共に、始源のもどきが仮想され、神話が生まれた。神話は祭祀として繰り返し演じられることによって、その信憑性を確たるものにした。
杉本博司「どこにでもある ありふれた話」

 それ自体が写真のような、首を落としたかのように、スッパリとしたこの文章の質感。文化人類学者よりも遙かに透明な、絶対的な感覚に近しいまでの高みから発せられる言葉の、単純にしてビビッドな力強さ。
 写真家は、さまざまな「模倣のもととなったヨーロッパの劇場」を尋ね歩き、古典劇場に架けさせたスクリーンに映画を上映させ、一本の上映中に露光をして写真をつくりあげる。物語という、およそどのようなそれであれ、幾らでも咀嚼をし、展開をし、自ら解釈を作り出しては飽くこともなくそこに新たなニュアンスを付け加えていく、または批判を戦わせる、その「物語」は、際限なく続くお喋りのようなかかる永遠であると同時に、白く発光したスクリーン、一瞬の光へと重なり合って、ここに、画廊のなかに収束をしているのである。永遠が一瞬となり、一瞬が永遠となる、その決定的で、完璧な、いつもの「劇場」シリーズに、「オペラハウス」という舞台設定がつき、そして写真から目をそらせば、手許のプリントに、映画の概説が記されている。

 「終着駅」1953年
 監督:ヴィットリオ・デ・シーカ
 上映時間:1時間19分

 男と女が出会う、そして不倫関係に落ち入る。別れがつらい、しかし別れねばならぬ。美男美女がおりなす別離のせつなさよ。

 どこにでもある、ありふれた話だ。

 「旅情」1955年
 監督:デーヴィッド・リーン
 上映時間:1時間40分

 失恋の心を癒す為に女はベニスへと旅に出る。そして男とふとしたきっかけで恋に落ちる。しかしその男には妻子がいた。いやます恋心と別れの辛さよ。

 どこにでもある、ありふれた話だ。

 この各写真、というよりは映画について解説をする一枚のプリントの標題には
「どこにでもある、ありふれた話」
 とある。これによって、「劇場」は私たちの生きる今ここ、にも焦点を合わせて、適確に像を捉える。ひとつの絶対的なる高みからすれば、いかな生であれ、「ありふれた」生へとならざるを得ない、――いや、を得ない、というよりも、その「ありふれた」窮所へと、鑑賞者は、直截に追い立てられる。影をなくした地点、杉本博司自身がそうであるとカミングアウトをする、自己に自己を感じられない離人症者であるかのような地点へと。

 詩人はふりをするものだ
 そのふりは完璧すぎて
 ほんとうに感じている
 苦痛のふりまでしてしまう
 ペソア「新編 不穏の書、断章」澤田直訳

 その感覚を気に入ったのであれ入らなかったのであれ、どうであれ一生ギャラリーの中にとどまるわけにもいかずに、惜しみながらに、別れの時を選ぶのは「私」であった。
 すっかり写真にうちのめされて、「私」が「私」でないかのように感じつつも、しかし外気の籠もる日常へと、いちど帰ってしまえば、ふたたび、にわかに頭をもたげてくるのはなにものかを売りさばこうとする、ネオンサインの秋波なのであった。そしてここは劇場のスクリーンのなかではない。浅ましく腹が空いた、といって薄汚れた、町場の飯屋へと入り込むそのさまは、たしかに動物園の動物じみていたかもしれなかったけれども。

いい芸術にふれた後って食べ物なんてどうでもよくなりますよね

 われわれが特に必要としているのは、生きることであり、われわれを生きさせているものを信じ、また、なにかがわれわれを生きさせているということを信じることだ。――そして、われわれ自身の神秘的な内部から出てくるものが、いつまでたっても、粗野な食い物の心配となって、われわれ自身のところへかえって来てしまってはならないということだ。
 私の言いたいのは、われわれすべてにとって、今すぐ物を食べることが重要だとしても、さらに重要なのは、その、今すぐ物を食べるという心配のために、飢えるという単純なわれわれの力そのものを無駄使いしてはならないということである。
 アンナトン・アルトー「演劇とその形而上学」安堂信也訳