本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「闇の中に閉じこめられた複雑な機械」――谷崎潤一郎「青春物語」、伊藤整「若い詩人の肖像」

 谷崎潤一郎の文章に不感症である。
 官能的な色や、感触ではない、ただ散文的な印象をどの小説からも受け取ってしまうのだ。
 十七歳かそこいらで「細雪」を読んでいたことも、その一因であったかもしれない――近所に学校があり、そこで学生らが華やかに声を上げ、校庭からの野球の音などが聞こえるなかで、なにゆえ、「細雪」を読んでいなければならなかったのか。退屈さを退屈さによって埋め合わせていくような、あの小説と、青春時代の一回こっきりの快活さとは、どうにもそぐわず、ただならない居心地のわるさをもって読んでいたものであった。
 実際に十七歳のころに「細雪」を読んだことがないひとであっても、おおよそのところは分かっていただけるはずだ、なにも、そんなことは当たり前のことなのである。青春、などという大時代的な言葉を用いずとも、読書するなぞよりも、もっと豊かな現実が眼前に、ありえた。
 「痴人の愛」や「異端者の悲しみ」は、どちらかというと中間小説として、そのころに読んでいた。
 評伝を読んでいても、谷崎を、魯鈍であると感じてしまう。触発されてバルザックのパスティーシュをしたという「鮫人」を、そんなこともしていたのかと興味をもって読んでみるが、まったく成功をしていない。

 永井氏の前に、近松秋江氏も新聞の月評欄で私の「少年」を褒めて下すったことがあるけれども、しかしその称讃のの程度と云い、分量と云い、既に大家の域にある作家が後輩を推挙するものとして、永井氏の論文の如く花々しいものは前例のないことであるから、予想の如く、そのお蔭で私は一と息に文壇へ押し出てしまった。私が初めて原稿料と云うものを貰ったのは、その前年、明治四十二年の十二月、『スバル』へ戯曲「信西」を書いた時であったが、これはその同じ月の『新思潮』に吉井君の「河内屋与兵衛」を載せ、『新思潮』から交換的に吉井君へ原稿料を支払うと云う条件が付いていたので、普通われわれの原稿には何処でも金を払わないのが例であり、現にその後の『スバル』へ載せた「少年」や「幇間」等も、私はただで書いたのである。が、荷風先生の推挙があってから間もなく、『三田文学』へ「颱風」を書いた時は、黙っていてもちゃんと先方から稿料を届けて寄越した。次いで中央公論主筆滝田樗陰氏が神保町の裏長屋へやって来た。私は直ちに「秘密」を書いて中央公論社へ送り、一枚一円の稿料を貰ったが、その次ぎに書いた「悪魔」からは一円二十銭になった。私は忽ち売れっ児になり、順風に帆を張る勢いで進んだ。
谷崎潤一郎「青春物語」

 文壇史の一側面を知ろうとする向きには、一定の興味を抱きながら読める文章である。ややはしゃぎ過ぎている感はあるものの、はしゃぐことによって永井荷風への、恩顧を示す、というやり方は、一般的に理にかなった、筋の通ったものであり、その感性といい、文章自体の出来といい、これが「普通」なのだと、私は思う。無名の作家が、大家の、似たような資質をもつ作家に褒められ、出世をする、喜ぶ、それの何が、いけなかっただろう、咎められるいわれなどない、――「普通」は、そうなるのだ。称讃が、はたして、どのような打算のもとから生まれたのかは分からない、そんなことは当人にはどうだってよいのであったし、はた目にもひとまずどうでもよいことなのでは、ある。「普通」は。
 私が云いたいのはかかる「普通」に疑義を抱くということが、いかに困難であったのか、ということだ。ここで引用するのが二度めになってしまうのだったが――(草野心平記念文学館にゆく――伊藤整「若い詩人の肖像」を添えて - 本とgekijou

 以前には私は、白秋、露風、惣之助、光太郎、朔太郎などの作品を傲然として批判し、点をつけ、その中から一二篇を僅かに自分のノートに写すという光栄を彼等に与えていた。今では私は、そのずっと下っ端の草野心平などという変な名前の男をも先輩と見なければならないのである。草野心平というのは全然誤魔化しのでたらめで人を驚かすような詩しか書いていない奴だ、と私は考えた。たとえば彼は、「詩壇消息」の四段組の一番下の欄に「冬眠」という題の詩を書いていた。題は「冬眠」で本文は●という黒丸一つである。蛙のことばかり詩に書く男だから、「冬眠」とは蛙の冬眠のことなのであろう。こんなハッタリが横行し、室生犀星がたまたま身辺に集まった若い者を天才の一群であるかのように身勝手に推薦するような詩壇では、情実や排斥や仲間ぼめや序列などということが横行しているにちがいない、と思い、私は詩壇というものを恐れた。
伊藤整「若い詩人の肖像」

 ここにあるのは、妬みそねみから生まれる、「詩壇」自体に醜い打算があるのだと投影をする、醜い、俗な視線、ではない。少なくともそれだけではない。寧ろ自らが、詩なるものを、文章なるものを、本のかたちにして世に出した時に、どのような状況に投げ込まれることになるのか、人と人との関係のなかにあってどのように、汚れていってしまうのか、それを先取りをして警戒をする、してしまう、神経の働き方なのである。そしてそれは単に――伊藤整はのちに小説家としてよりはまず評論家として大きな仕事をしていくことになったのだが――批評家的な視点、というのでは済まされない、文壇であり、東京という都市であり、ひいては「人間」を外部からみるがゆえにこそ、内面の醜いところへと視線をむけざるをえない、書き手の素質が、そう書かせるテクストだったのではなかったか。

 自分の心の内側の働きはまだオレに分っていない。そこには闇の中に閉じこめられた複雑な機械のようなものがある。そしてそれがオレにはまだ分っていない。そこをのぞいて見るのは怖ろしいことで、今のオレには出来そうもない、と私は思った。
同上

 このテクストはそのような独白によって、終幕を迎える。
 そして、そのダイモンはまずは「新心理主義文学」を生み出すことになる。

 それでは伊藤の最初のジョイス論はどのようなものであったのか。
 伊藤はまず、「小説の既存の限界内に於てはあらゆる探索がなし尽くされたのである」と宣言する。そしていまや、「新しい面を打開すべき方策は唯一つしか無かつたのである。即ち生活の新しく発見された原子である無意識の世界にまでその領域を推し進めることしか」と書く。
川口喬一「昭和初年のユリシーズ」

 「新心理主義文学」は、当時「文壇」において強い権力をもっていた、小林秀雄らによっておよそデタラメな仕方で批難を受ける。シモンズの「象徴主義の文学運動」から適当に引っ張ってきたような文章で、取り敢えず伊藤を叩いておこう、と。かくして以来、伊藤・小林の仲は険悪であり(ともに旅行に行ったりもしているのだが)伊藤は小林を「骨董蒐集家」とし、小林の文章を「信者のための文章」として、こき下ろすのであったが、日本文学史なるものは、小林に軍配をあげ続けているようだ。
 問題は、「骨董蒐集家」「信者のための文章」と他人を、他人の文章を罵る、その自身の「心の内側の働き」に、評論家であると同時に小説家であった伊藤整は、十分に目をこらしていた、ということだ。その態度はのちに「闇の中に閉じこめられた複雑な機械」を小説としては最上のかたちで立体的に捉えた、「生の三部作」を用意することになったのである。