本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「一種のはじらい」――ジャンケレヴィッチ「死」、末井昭「自殺」

 死がわれわれのうちに呼びおこす一種のはじらいは、大部分、この死の瞬間は考えることも語ることもできないという性格に由来している。生物としての連続に一種のはじらいがあるように、越経験な停止にも一つのはじらいがあるのだ。定期的な欲求の反復がなにかみだらなものをもっているとすれば、一つの血塊が突如生命を中絶するという事実も、また、ぶしつけなことだ。いとまごいをすることの難しさそのものの中に、人は訣別の恐怖症とわれわれ生来の連続主義が最後の瞬間を前にして覚える臆病を読み取ることもできよう。始めることも終わることもあえてしないものは、いわば、最初と最後とをはじらうのだ。中間に調整された一般の人間が、ちょうど希望を許さない拒絶のあまりにもぶっきらぼうな否定を婉曲除法の中に薄めるように、また、虚無をあらゆる種類のニュアンスでやわらげ、否定の返事を状況に合わせた一連の様態で色づけするように、死というタブーのことばは、たしなみと思惑のよい表現で慎しくおおい隠す必要を覚える非道な一音節語、発音することも、言うことも、告白することもできない一音節語ではないだろうか。死という短いことばに対する嫌悪、文章を泡立たせ、形容詞をふくらませる傾向は、ことさらに大衆のことばの中に感じられる。このような饒舌は、しばしば臆病さの一つの形なのだ。
V・ジャンケレヴィッチ「死」中澤紀雄訳

 ドゥルーズやガタリの書物が時としてそのように形容されたり、あるいは「性の歴史」以前のフーコーのエクリチュールがそのように形容されるようなそれとは、ことなった意味合いにおいて、ベルクソンの衣鉢を継ぐとされるジャンケレヴィッチの書き言葉は「文学的」であり、哲学が哲学とならない見晴らしから、このテクストもまた形成をされている。大体が「死」というものは哲学的主題としては、どこか不釣り合いなところがあり、かような言語のあり方であるがゆえこそ、「死」というものと大々的に取り組みをできたようなところがあったのではなかったか。
 さて、末井昭の「自殺」は不思議な本である。
 読んでいる間中、ずっと書き手の「背中」がみえるのだが、不思議を感じるのは、その「背中」がしいて「背中」というまでの、がっしりとした逞しさを有したそれではないためだ。ムンクの「叫び」を現代風に、ポップに書き直したイラストが本の表紙になっているが、印象派的に、ボウヨウとして、線の崩れたそれは、背中だったのか、うなじだったのか。いずれにせよ、なにかを感じ、なにかに寄り添う書き手の後ろ姿が、終始ちらつく文章なのであったが、それが見慣れた立体を成していない。
 もっといって線が崩れてしまうのは、書き手が手向ける優しさが、行き場のない優しさであるほかないからであり、書き手みずからも十全にそれを承知した上で、つまりある無力感にさらされた上で、一般的に優しさとされる性質の、その声かけをしているほか、なくしているからだ。
 つまり、どう考えても、自死とは正しいか正しくないかで云ったのならば、「正しい」選択なのだ、――少なくともそう私はおもう。どうせこの世の中は碌でもないのであり、生きるに値しないのであって、それであるのならば自ら「死ぬ」ことを選ぶことは、誠実であるのか否かはともかくとして、「正しい」。
 もちろん、人生なぞというものも社会というものも、正しい、正しくない、という尺度から成り立っているのではなかったし、いろいろなことが降りかかるなかで、さまざまな事情を背負いこむなかで、自殺をすることの正しさから、ひとは目を背けて生きていくのであり、それが普通なのである。諦め、悟り、未練を感じながら、それは、問うてもしかたのない問いへと、いつからか降格をしてゆく。それはあくまでも、不問に付されてゆかねばならない。それであるがゆえに自殺はいつも、青々しく、そしてまた本質的に青々しいものから人は目を背けたがるという曖昧な拒絶の循環が、行きがかりと、生理的な反撥とをぞんぶんに孕みながら作り上げられてゆく。
 末井は読み手たちにむけて自殺を止すよう語りかけるのだが、その口吻はといおうか、ニュアンスは、一本調子ではなく、それらの理路をふくめた上で、つまりはいかに止めようが死ぬ人間は死んでしまうのだ、という諦念や屈折をはらませて、そう云っているのだ。優しい優しくない、というのは生ぬるい言いようだが、優しい、というのはつまりはそういうことだ。世知に長けていて、だめな場合はだめなのであると、諦めもついている。かくして、無神経な言葉ではなく、あたかも死者をも包容をするような、死に向かおうとする者に対する声がけが、このテクストにおいては、得がたく成立をしている。

 パチンコはまだまだマイナーな時代でした。『写真時代』の著者から「スエイはいつからパチンコ屋になったんだ」とか言われることもあって、売れなかったら恥ずかしいと思っていたし、それより何より『パチンコ必勝ガイド』が売れなかったら、僕のやるべきことが何もなかったからです。 
 先日テレビで「パチンコにハマる女」というドキュメンタリーをやっていました。パチンコ店にいると孤独が癒やされるので毎日通うようになり、一〇〇〇万円の借金を作ってしまったという女性が出ていましたが、その女性は「パチンコ台が話しかけてくれる」と言っていて、「あ、僕と同じだ」と思いました。パチンコで一〇〇〇万円の借金を作るなんてなかなかできることではないのですが、その番組は「パチンコをやったから一〇〇〇万円の借金ができてしまった」というストーリーになっていて、「パチンコは悪である」という考え方が根底にあるように思えました。
 しかし、その女性はパチンコがあったから一時期孤独から逃れられたわけです。もしパチンコがなかったら、孤独に押しつぶされて自殺していた可能性だってなくはありません。「一〇〇〇万円で孤独が癒やされたのだから安いものだ」ということだって考えられます。僕は本当にパチンコに助けられたと思っているのでそう思うのかもしれませんが、パチンコで自殺をまぬがれた人だってきっといるはずです。
『パチンコ必勝ガイド』を出すようになって、それまでうしろめたさを感じながら打っていたパチンコが堂々と打てるようになり、ますますパチンコにのめり込むようになります。
末井昭「自殺」

自殺

自殺

Amazon