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「バルト自身のスタンダールへの道」――西川長夫「ミラノの人 スタンダール」、スタンダール「イタリア紀行」

 ヌーヴォ・ロマンの極北を「人生 使用法」であると思っている――今回、その小説に踏み込むつもりはないのであるが。

 十九世紀的な小説をいかにして現代において、分析をするかにロラン・バルトの「S/Z」などは衷心をしていたわけだが、思想史的にというか、文芸理論史的にはそのヌーヴェル・クリティーク的な意志の超克を志向づけたかたちで、ドゥルーズであれデリダであれ、出てきたのである。そしてそこから先、文学は文学それ自体の力で新たなムーブメントを作り出すことには悉く失敗を喫し続けてきた。詩人が未来派やシュールレアリスムを作り出したり、小説家が自然主義を作り出して、日本の作家たちがそれを必死になって模倣をしようとして失敗をする、ということがなくなった、その時に何が起こったのかといえば、哲学と文学の曖昧な和合のごときものであった、と云えただろう。

 実際に、日本の新人類世代の書き手までは、文芸批評家と呼ばれる西欧思想の解説書のようなものを書く人々の書物を意識をして、そのエッセンスを小説のなかに取り込んでは書く、ということによって自らが知的であること、小説家であることを担保できていたわけであり、それはニューアカデミズム周りの島田雅彦や小林恭二や高橋源一郎の残した作品をみていれば、分かるようなことである。補足するが、たとえば「構造と力」のような書物を読めた作家、読めなかった作家というのに二分した時、読めた作家たちこそが文学上のメインストリームを作り出していったのには相違ないのであるし、その原理は現代文学においてもおおよそそのまま適用できただろう(問題はこんにちにおいては「批評家」が不在である、または有効な強度として作用をしない、権力を有することができない点であり、その意味で、現代文学は小林秀雄の誕生以来およそ迎えたことのない、近代文学から脈々として続いてきた状況からの断絶というか空白を体験しつつあるのであったかもしれなかったが)。どのみち現代においても、世界文学は「文学」としての求心力をもったムーブメントを作り出せないがゆえに、同様の、小説作品における哲学的エッセンスの反復や(新人も含めて山ほどおり、例外のほうが少ない)、過去の文学作品の模倣(たとえば、わかりやすくいって朝吹真理子によるプルーストの模倣もどき)の系譜が継承されていく、というほどの意識もないまま、惰性で続いて行く「文学」、みたようなものが、とにもかくにも、ある。

構造と力

構造と力

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 七十年代には小説はもう、小説としての力を失っていたのだということは充分にいい得るだろう。ここ半世紀間とは小説がアナクロな形式へと退行をしていく、書かれれば書かれるほどにそれが浮き彫りされていく時局であったのだと捉えることは、斜に構えているのではなく、寧ろ真っ当な評価であり捉え方であるように、私には思われる。
 俗事に類することであるが、ノーベル文学賞をみていても事態は明白であったかもしれない。サラマーゴのような小振りな作家がノーベル賞を獲っているのみると、文学というものがいかに世界的に先細っているのか、と思わされ(サラマーゴ自体はいい作家とは思いはするのだが……)、グラスやバルガス・リョサやオルハン・パムクが、まだしも増しだったかと回顧されてしまう。そして、ナディン・ゴーディマの小説を開くとたちまち、ノーベル文学賞など所詮ノーベル文学賞であったのだ、とわれに返らされるわけである。第二次世界大戦後、政治的な色がつくようになったのが大きな要因なのであるが、七十年代以降、技巧的なダイナミックな変化を小説自体が経験していない、それを作り出す能力に「小説」はずっと欠いたままであることも看過できない。
 十九世紀という紛れもない小説の全盛期、天才たちの世紀から、いかにして私たちは離れてしまったのであったか。

 バルトは長い間スタンダールを敬遠していたように私には思われた。バルトの著作にはスタンダールからの引用はほとんどない。ようやく後期の『恋愛のディスクールの断章』に、『恋愛論』からの一節と『アルマンス』からの引用が三カ所現われるくらいである。《私は構造主義者になっていらいスタンダールを読んだことはない》という言葉をバルト自身の口から聞いたのは、もう十数年も昔のことだ。バルトがスタンダールを敬遠している理由を私は私なりに考えて、ある程度は納得もできるように思っていた。しかしもしバルトがスタンダールに接近しはじめるとすれば、それはどのような角度からどのような道筋を通ってであろうか、というのが私の長い間のひそかな関心事であった。バルトは遺稿によってそれを教えてくれた。バルトは自分の日本体験をスタンダールのイタリア体験に重ね、一人のディレッタント的な文学者にとっての旅とイタリアという異国への愛の意味を問うことによって、バルト自身のスタンダールへの道を見いだしている。
西川長夫「ミラノの人 スタンダール」

 好況期の八十年代、生粋のスタンダリアンとしてスタンダリアンの集まりに出、そこでロラン・バルトの講演に耳を澄ませる――それ自体に何等の罪もあるわけではないのであったし、話は相応に興趣に富むのであったが、近代日本文学のはじまり以来、見慣れた日本人の姿を私たちはここで、見させられている。たとえば、ドストエフスキーに憧れながら愛犬の死がもっとも印象的に書かれた二葉亭の小説。ナショナリスティックな心情になびいて云うのではないのだが、それが、鏡に映った私たち自身の姿ではないと、だれに言い切ることができたであろう。翻訳ものの小説を読み、小説についての読み達者となり、通人となればなるほどに、「小説」をめぐる問いかけは、こんにち、半世紀の無為無策を自らのものとして請け負わねばならない性質の、切実なそれとして存在しなければならないはずだ。そうでなければいかにして、小説を語ることができたのであったか。その未来をではなく、現在をすら、語りきることはできなかったはずだ。一体、ここ半世紀間、小説家とよばれる人々のなかに、どれだけの小説家がいたのであっただろうか、そしてどれだけの小説が書かれたというのであったか。

 あの世界第一の劇場へ駈けつける。『青銅の頭像』がまだ上演されていた。わたしは感嘆しどおしだった。場面はハンガリーで起こる。ハンガリーの王は、これまでガッリほど堂々として、荒々しく、高潔で、軍人らしい者はいなかった。わたしの出会ったいちばんよい役者の一人である。今までにわたしの聞いたいちばん美しいバスの声だ。それはこの広大な劇場の廊下にまで響いた。
 衣裳のそろえ方ではその何という配色法。わたしはそこにパオロ・ヴェロネーゼのもっとも美しい絵を見た。民族衣裳の、白、赤、金の華やかなハンガリー騎兵の服をつけたハンガリー王のガッリの傍で、総理大臣は黒ビロードにつつまれ、自分の位を示す記章以外、華美な飾りをつけていなかった。
スタンダール「イタリア紀行」臼田鉱訳