本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「沈丁花の香が僅かに」――檀ふみ「どうもいたしません」、伊藤マリ「帰らない日へ」

 近代文学というか、日本における近代国家のはじまりは言文一致運動とともにあった(こうざっくり言ってしまうと近代史家に怒られるのかもしれないが)。近代国家の創設と連動をして国語運動が興るのはなにも日本にかぎったことではなく、ドイツではグリム兄弟がナショナリストであったし、フランスではアカデミー・フランセーズがある(フランスをみるとわかりやすく、中央に権力を集中させるため、移民がたくさんいた国のなか、移民の作ったフランス語をこれはフランス語ではない、これはフランス語である、……と国語を作っていき、それが近代国家を作る上で重要な課題となったわけである)。ざっくりと云ってしまえば、日本の近代文学とは言文一致体で書かれる、「だれでも読める小説」であることを目的として書かれるようになり、そして遂行をされていった。その歴史の流れは、私たちから漢籍の素養を完膚なきまでに忘却をさせるに至り、インターネットの台頭によって起こった「国語」の変化が一体なにであるのかは、未だ、たしかな答えは見つかってはいない(ネット時代以降、ネットが原因か否かはおくとしても国語力が全体に衰退をした、というのはだれしも明確に言いうることであったろうが)。
 幸田露伴の最高傑作は幸田文である、という言い方があるのだが、実際、文の天才に比すれば露伴は小さくみえてしまう――そこには、漢籍も碌に読めなくなった私たちのリテラシーによる責も大なりなのであったが、時代状況によって価値基準は変わるのだ、という捉え方もできただろう。幸田文の文章に触れられる私たちは文の日本語の凄みを触れられる、幸福な世代であり、それを手放しに喜んでいればいいのである。
 優れた二世作家には、ほかにも森茉莉がいたであろうし、作家の嫁ということであれば坂口三千代、武田百合子、高橋たか子と、ぱっと思いつくだけでもそれだけいるが、男流は少ない――忘れてはならないのは北杜夫であろうが、この書き手は精神科医にして躁鬱病に瀕してしまう。やはり男性というのはプレッシャーに弱かったりするためであろう。
 幸田文や森茉莉と比すれば、可憐であるのは否めないが、現代の二世作家を思う時、私をえも云えぬ温暖な気分にさせてくれるのが、檀ふみである。

「女優道」は、女優さんにならうのがいちばん早い。
 しかし、私が日本一と思うヘア・メイクさんは、並の女優などより、はるかにその道に明るい。なにしろ、何十年という長きにわたって、様々な女優の生態を裏から表から、研究しつくしているのである。
 たとえば、支度中に「コーヒーいかがですか」と尋ねられたら、コーヒーなんぞ大嫌いでも、「いえ、結構です」などと言ってはいけない。
「ほかの人が飲めなくなっちゃうでしょ」
 このあたりは、くだんの女優さんと同じ意見である。
「人に考えさせなきゃダメ」と、彼は言う。ちょっとでも腑に落ちないことがあったら、眉をひそめ、しばらく黙って動かずにいる。「何かがお気に召さない」と、周りが気づいて、あたふたと駆け回るまで、じっと沈黙を続ける。
 考えさせることによって、人を成長させる……わけだ。
 あるとき、彼が選んだかんざしが派手すぎた。鏡をにらみながら、私は黙って眉をひそめることにした。さすがに女優の心を知る人である。すぐさま別のかんざしが用意された。それもなんだか違うような気がしたので、ダンマリを続けた。三つ目にも笑顔を見せなかった。
 すると、突然、彼が天を仰いで、何やら叫び始めた。
「むかしは、こんなヒトじゃなかったのに!」
 女優道は、かくも険しい。
檀ふみ「どうもいたしません」

 場面をコミカルにするため、「ダンマリ」や「ヒト」とカタカナ使いを頻用している点にも、書き手の行き届いた意識が見て取ることができる。
 酒場がよいも碌にしない、現代の小説家の貧弱な経験とはことなり、芸能界という舞台でさまざまな体験をしている上、それをあくまでも読み物として、徹底的に愉しませる文章として、檀ふみは書く。天性のものもあるのであったが、初期のころのものを読むと、こうした着地点のはっきりとした、よくできた構成にはなっておらず、しっかりと鍛錬の人であるのも、好もしい。最近の幻冬舎から出ている随筆集は、いずれもそのエンターテインメント性において、円熟の域に達しており、エッセイストという括りでいえば間違いなく、現今の日本で五本の指には入る書き手が檀ふみであると、私は信じて疑わない。すべての文章にメリハリが効いており、サービス精神も旺盛で、最後の一行でいつでもスパリと、落とす。みごとな書き手であるし、壇一雄という作家から、なぜこのような珠のような書き手が産まれたのであったかと、それを思うとおかしみが湧いてくる。
 二世作家のうちでの変わり種というか、読まれていない書き手のものを紹介しておこう。伊藤整の娘であり、書き手は十七歳なのであったが、ここには揺るぎのない、天才性が垣間見える。息子である伊藤礼も、父伊藤整の評伝をはじめ随筆を多く書いているのであったが、銀座に愛人をつくり家では冷淡な態度をしかとらなかった父親、としての伊藤整を、活写できているのはこの、娘の伊藤マリの方であっただろうし、文章にも、なぜか伊藤整の音韻を感じさせる。読み手が達者であればあるほど、刮目を迫られる性質のリズムがこの何気ない文章には澎湃として、溢れ返っている。

 小郡から山口線へ入った。山中の風景に強く日が射していた。盛春だった。
 旅立つ三日前に北海道から帰京したばかりだった。札幌ではようやく街路に固まった土色の氷が消え始めていた。羊蹄山の近くの山は、雪が雨まじりに降り明け始めていた。やや長い雪中での滞在の疲労と、その日急に襲った受験結果への失敗の予測を持ち、静閑な住宅街を家に向けて歩いた。夕刻になっても日が明るかった。沈丁花の香が僅かにした。帰宅して即時に、置きみやげにしてあった試験結果の失敗を知った。部屋の中で幾時も薄い眠りを続けた。遮蔽した扉の外で朝が明け、漆黒が森閑としているのを折り折りに知った。途切れ途切れの睡眠の背景は、羊蹄山の裾野が地平線に漸近して流れる線形だった。一方の高みから眺めると、こちらの山地から羊蹄山までなだらかに平地部が降り又昇っていた。水がうねうねと流れ出していた。エゾ松が薄茶のぼけた斜線を途切れ途切れに描き出し、中腹に達していた。
伊藤マリ『津和野の町は自転車に乗って』(「帰らない日へ」収録)

 標題は「春は馬車に乗って」から借用されているのだろう。
 書き出し部分であり、ここで一行空いて次の段落に移る。中腹に達していた、がこの段落の落(さ)げと成っているのだが、「途切れ途切れに描き出し、中腹に」の「、」の打ち方でとどめを刺すところが、いかにも伊藤整のリズムであるのだが、そうした小手先の上手さや似ている、いないということはどうでもよく、文章全体の硬質でありながら、その硬質さゆえの詩的な風合いを感じさせる語の選択や、文章を膨らませる形容のあり方。一体このような化け物じみた文章がなにゆえ、書かれなければならないのか、一読して唖然とせざるをえない。書き手は三十代に届かず、この本一冊を残して、夭折をしてしまっている。