本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「文学なんてワンピース歌舞伎みたいなことにでもなっていればいいんじゃない」「新国立美術館の「遠距離現在 Universal / Remote」」

 「文學界」の編集長の、若い女性の方なのだが――なんか今、みんなどこも、って調べたわけじゃないけれども、「若い女性」ばっかりだよね。画一性があっていいとおもうのだけれども、その、浅井茉莉子さんがインタビューを受けていて、見出しが「文芸誌が生き残っていけるかは、たぶんこの5年10年くらいが正念場」だって。巫山戯んなよ、冗談じゃないよ、いつからゾンビみたいにまた、再生をして、生き始めたんだ、文芸誌ってやつは。
 そこまで、現状認識というのができていねえのかって。
 まあ、いつ死んだのか、については、いろいろ議論があるだろうが、すくなくとも、今生きている、というのよりは、いつ死んだのか、の時点で、議論としては、建設的なくらいなもんだ。
 もうなんかさ、ワンピース歌舞伎みたいなことにでもなっていればいいんじゃないの。
 冗談じゃなく、実際なってんだろうけれども。

 んじゃテメエ、なんで、ものなんて書いてンだっ、ていう話になる。
 自分に跳ね返ってくるわな、かったるいことに、そういうことを云っていると。
 ほんとヤダ。
 私は、文学も、文学の市場ももう終わったと思っていて、要は小説は終わってんの。
 それで、いいじゃんというか、終わってんのに、なにガタガタ騒いでんだと、なにを大口たたいて「表現」とか「創作」とか云ってんの、と、んだから、おもうけれども……。
 で、それでもなお小説を書く、ということに、私は自分なりの意義を見いだす必要をほんとうに感じていないの、ね。
 ニヒリズムってあるじゃん。あらかじめ自分で地獄を設定する。
 ニーチェでもいいし、だれだろう、ダンテの神曲でもいいか、まあ。
 そうじゃないの、ね。
 ニヒリズムではなく、事実と、事実があるだけ、つまり廃墟のなかでゴミを生産する、それだけのことだとおもっている。
 小説なんて滅多に、生まれないですよ、現代で。
 小説家なんていうのも、勿論、いねえよ。
 べつになんていうか、昔ッからそれはそうだったじゃない。それでなんの不便もなかった。
 文学じたいがどうしようもない滅亡のど真ん中にあるのに、今は新人賞の投稿数とか、トンデモナイ数になってっからね、夢をみていたい人は多いから、あんま、水をさすようなことは云っちゃなんなのかもしれないけれども、そんなのは、知らないよ、だって、ナァ。

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 だからニヒリズムではなくって、獅子文六みたいな合理主義性っていうのかな。しいてイズムでいえばシニックではあるのだけれども。
 それが大事なんだと、自分では認識しているかな。
 商業作家になる、俗物になるのではなく、ただ事実認識の前に、ゴミがゴミであることを自覚をする、自認をする、それだけのことだ。
 くりかえすけれども、小説というのはそれほど終わっているのね。

 ここからは、余談だけれども、新国立美術館の「遠距離現在 Universal / Remote」展、いいよ(今もやっているって、さっき確認をした)。
 観ているうちは、そうでもなかったかな、――マティスよりかいいや、っていう感じだったけれども、私は徐々にきいてきた。
 批評ってなんなんだろ、ってね。
 私はそれで、おもうんだけれども、批評というのはジャーナリズムの分野に降格をしているというか、ジャーナリスティックでなければもはや、批評じゃないのよ。
 アーレント的なことではなくってね。アーレントってジャーナリズム肌のひとだとおもうんだけれども。
 論争的に、グローバルでフラットな価値基準――現代アートをみるとよくわかるが――をシェイクし順列をつけてゆくしか、批評には方途なんてないの。
 だって美術なんていう文学なんてのよりも先取的な形式であっても、もう底がついちゃってんだもの。
 韓国のひともアメリカのひともヨーロッパのひとも、みんな、インターネットについてしか描けないし、それを描くことで、価値がついちゃう。
 この価値基準自体に喧嘩売っているしか、ねえんだよな。

現代アートとは何か

 哲学なんてもんがそもそもがハイデッガーの解説書書くしごとになって、ひさしく経った。
 あの最後の線香花火から、だいぶ経って、もうなんにもない。
 あのハイデッガーの解説書にはじまり、いろいろな哲学をめぐる言説をまとめあげてゆくような仕事は、日本人になると、近代以降の西洋かぶれの遊戯に堕落しがちっていうか、――そこまでのたいしたもんでもねぇか。
 もう、べつに一部の生き残りの批評好きの劣情を刺激しているだけだもの。
 で、その、生き残りの批評好き、っていうのは褒め言葉で云っていない。
 全然いってない。
 批評好きにかぎって、本、読まない、哲学書の原典も読んでいないのが多いんだよ。批評好きっていうか論争好き、喧嘩好きなやつね。
 ネットにうようよいるけどさ。
 そういうのにかぎって小林秀雄すら、ほんと、読んでねーのよ。見え透いている。夏目漱石すら読まないのだから、なにもわからない。
 漱石ってさ、やりようによっちゃ、今でもアクチュアルですよ。
 けど、だれもやろーとしないの。
 昔は、大学教授は漱石を、というのがあって、その利得にむらがるひっつき虫も大勢いた。
 筒井康隆のくだんない本とか、みると、わかるか。
 けれども今の状況は、漱石という中心を失ったことで、それをさらにくだんなくさせていっただけ。日本文学は漱石だし、日本の批評はどうあれ漱石だもの。音楽批評であれゲーム批評であれ真面目にやってくと漱石書くことになる。
 そういえば「抽象の力」の著者も、現代アートの人だもんね。わざわざあれ読んで小さい個展にまで行ったよ、オレ。
 いろいろ、がんばってんだ。
 そしたらなんか、今、アーティゾン美術館だかに、もっといいのがコレクションではいっちゃっていたりして。

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