本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

(日記)いわゆる「旅と日本文学」について

 きたかた食堂が旨い。
 旨い、としいて書き出しに用いるような、ゴテゴテとした旨さじゃなくって、さりげなくなんだけれどもね。
 ちなみに私は福島県人である。
 新橋と神保町という私のテリトリーにあって、しかも、行列ができる性質のお店じゃないから、使い勝手が良い、というのもある。
 それをさしひいても、本場の喜多方ラーメンよりも旨い。
 私がおもうに、多加水麺っていま都心で流行っているから、ほかと差別化をはかるべくいろいろやっていった結果、本場のよりもすごい麺のラーメンが、喜多方ラーメンとしてできちゃったんさ。
 私がラーメンの食べ比べをしたころは、硬かった、麺。「篝」とかね。パスタのアルデンテっていうんだろうかねぇ……小麦の風味を楽しませるために、とにかく、ハードなのね。「むぎとオリーブ」辺りは今でもそうだが、どういえばいいんだろう、豚骨ラーメンのバリカタ、なんていうのよりも、もっともっと、硬かったもんだよ。
 それが、流行り廃りで、今、もっちもちの麺が来ている感じだね。

 きたかた食堂に話をもどすと、平仮名で「きたかた」なのは浅草に喜多方ラーメンって店があるからかな。
 浅草界隈はなんてーか、もとから喜多方ラーメン寄りな多加水麺、ラーメンを出す店が多かった。
 格安でさ、旨いワンタン麺出す店、古本屋さんの隣だったあそこ……つぶれちゃった時、ほんと悲しかったもんだ。
 チャーシューとかのディテールがびもーに違うんだけれども、とはいえ東京の喜多方ラーメンのが、旨いんよな。
 もちろん旅情の部分はクリアカットした話として。
 そもそもが福島のラーメンは、鶏ガラけちっているところが九割以上だから。

 浅草かァ……。
 浅草はただでさえ愉しげに歩いていられるのに、映画館がないんだよ。映画を日程に組み込むとたちまち、慌ただしくなるのが、それがない。
 いくらでもだらしなくなれちゃう。
 だもんだから、最小構成でこぢんまり仕上げた酒肴で蕎麦をすすって、それらしさを取りもどしたくなる。といっても、藪は私は、イヤなのだけれども。

浅草迄

浅草迄

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 なんでこんな話ばっかしているかというと、「旅と日本文学」というファジーで大きなテーマがあって、ひとを魅了しがちなのだけれども、やっぱ東京なんすよね。
 フランスも、パリなんすよ。
 近代国家ができる、中央に権力があつまると、人口もパリに集まる。ほかにも工業化とかの要素があるとして。
 だからどっちもバルザックだけど「谷間の百合」でも「幻滅」でも、田舎から都会への、「移動の物語」なわけだ。その側面がある。
 ディケンズの「オリバー・ツイスト」も、オリバーはロンドンに向かうよう、作者によって仕向けられているわけです。
 それは日本文学もおんなじで、作家になるため、東京にゆく、と。
 移動、人口と都会――近代文学ってか近代国家って必然的に小説にそのライトモチーフを招来するの。なおドイツは例外。ドイツは延々、ベルリンではなく、森を書く。
 俳人とか、画家とかになると、フィジカルに対象を求めて歩いていくわけだから、また話はちがってくるんだけれどもね。
 これはだから非文学的に、都市の人口の推移をグラフでみるとよくわかる。

古屋健三・小潟昭夫編「19世紀フランス文学事典」(慶応義塾大学出版会)より引用

 旅と日本文学、的な論文形式ではなく、私がそのことをアクチュアルに感じたのは、井伏鱒二の弟子小沼丹を読んで以降の最近のことであり、井伏よりも小沼丹のほうが今読んでおもしろい、すくなくとも今風ではあるわけです。で、彼がチャキチャキの東京人なのですよね。井伏は広島でしたっけ。
 今全力で読まれるべき幸田文も、みっちりと東京の人の文章。都市という公約数でいいんかな、は読みというか、時代の変化をたえて残るところがある。
 ――もちろん藤村みたいな例外もあるわけですが。
「縮図」でしたっけ、に資生堂パーラーが出てくるぞ、とかいうさもしい読みはイヤなわけですが(一番端的にいって、山口瞳になってしまうので)。
 まあそんなん言いつつも、私は「竹葉亭」が漱石のせいで好きですが。着物きたおばさんがウヨウヨしてんのはイヤなんだけれどもね、銀座のあそこらへん。
 山口瞳っていうか、その点だと、田中康夫か。
 田中康夫の「なんとなく、クリスタル」が一番イモっぽいんだよ、と訂正をしてようとしていると、通例の如く、だんだん不穏なことになってゆくので、ここらへんで切り上げるか。
 まあそんなふうに話をもってかないでも、地方の飲食店なんざ、ラーメン一杯ですら、食えたもんじゃねえ、の一言でいいんだろうけれどもね。