本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

(日記)バイブスに就いて

 私も四十なって、漱石のバイブスっていうのかしら、となりに漱石がいたらどんな感じか、というのが、わかるようになってきた。
 誤解も理解、とかいうのではないんだな。
 そうではない。
 しっかりと、直観のなかに填まる断片というか、情景の、後ろ姿の、ひとかたまりが一個の明確なカタチを備えることって、あるんだよ。
 そんな日が来るのかな、とか、夢見ているうちは、先達のいろいろな人生訓ってやつは、来ないですね。
 ある時にストンと来る。
 人並みに、数寄屋橋のオーバカナルで酒飲んでくつろぐことを覚えて、緑内障のための診察券とかが財布のなかに入るようになって、ある時にそういえばそんなこともかんがえていたものだっけ、と不意にうしろにあるものに気がつく、思いが至る。そうするとその影が、気配が、非常に大きく重たげになっている。

 漱石は英国にも行ったひとだから、ね――。存在感というのでも割り切れない、徒弟たちが惹かれる大きな静かに揺れるものを、その周りにいつも漂わせていたとおもう。
 縁台に出て、ひょいと外をうかがっている様子をみて、あっ、漱石先生が外をみている、なにをしているんだろう、なにがみえているんだろう、と自然と可笑しくなってしまうような、周りからすると、そういう感じがあった、とおもう。
 私の主治医の岡野憲一郎先生も、まったくそういうひとだ。むろん、文学者のそれとは異なるだろうが、そういう存在感があるのだと、空気が、バイブスがあるんだって、心のどこかで納得をする助けに、極端にいって漱石理解の助けに――なってくれてもいたのが、そうか、岡野憲一郎先生だったのか。
 村上春樹も、そういう雰囲気を湛えていた。
 オーラっていう言葉は、軽すぎて、イヤんなるけれども、その人がその人であるしかない一回性が、存在感に滲出してしまっているひとって、確かに、この世のなかには存在する。