本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

すべて批評家たちは酔っ払いである!?

 毎度、酔っ払いです。
 私事ですが、一日二十枚書く、を一週間だか続けて、やっと初稿を完成させたきょうですよ。そら、酔う、ってなもんだ。
 ここが福島だからいいものの、銀座だってんなら大変だよ、とんかつ食って数寄屋橋のオーバカナル行って蕎麦食ってもっかいオーバカナルだ。
 って、そんなカラ自慢はいいとして。ハハハ。
 酔っ払いについて、話すと、眩惑感ってなんなんだろーね。
 まあ結局、町場が好きだ、ひとと話すのが好きだ、ってのはあって、ひとって酒を飲みに行くのには、そういう前向きさがあるのだけれども、酒っていう中心は、眩惑感でできている。
 それゆえに、ひとは人前で嘔吐するのを恐れるんだけれどもね。
 いや、ホントホント。
 吐く時のあの恐怖感ってなんなん、つったら、やっぱ酒ってのはコミュニケーションってか、眩惑感を求める心持ち、というのとペアになっているのではないか。
 そうでないと説明がつかないことが多いよな。
 まあ、広くいっちゃって本も、そうだ。
 エドガー・アラン・ポーがつくろうとしたのは、蒸留酒みたいな、ショットグラスで効く、文字の魔法だったわけだしな。それをボードレールがこれはいい酒だ、とフランス語に訳するわけだ。
 私も二十歳くらいのころ、バロウズ読んだりしていたから。よくわかる。幻の麻薬もとめて森の奥地にいく書簡ってのが、あるんだよ。

 それがまぁ、ネットみてると大変だよ、アンタ。
 みないほうがいいな、ネットってのは。
 きょうも練炭自殺完遂の予約投稿ツイートが、タイムラインに、求めてもいないのに流れてきたけれどもね。
 自分はデパス飲んでいるとかマイスリーでラリってます、とかって。
 よくそういうのがいるじゃん。
 可哀想に、な。
 リスカの写真のせんのよりかおとなしめの、言表行為による自傷よな。

 私の解離性障害という病気は、変性意識状態で生きてしまう病気なわけで、そうすると薬が悪影響をもたらしたりする。
 薬って、変性意識状態をもたらすもんなわけだから。風邪薬とかもそうだろう?
 症状とされる解離の部分を増幅させかねないわけだ。

 でもさ、人間って枯れてくから。
 そうすると解離できなくなる(笑)。
 眩惑感が眩惑感であると知っていくんよね。
 変性意識を求めることができなくなるというか、それのたかが知れていくわけ。
 んー、これじゃ言い足りないな。
 子どものころの魔法が、解けてくんだよ、とにかく。

 だからボードレール的な諦念のもとで、想像力を増幅させるために酩酊をもとめようとすんのと、――それと重なるんだけどもちがっていて、世界がスッカスカだからカットアップの手つきを正当に生じさせるために麻薬を求めるバロウズというサンプルが文学史にはある。
 批評ってそういうことなんよね。
 ヴァレリーとかみるとわかるよ。あいつの建築家の対話篇は、プラトンのパロディになっている。プラトンをサンプリングしていくなかで、批評が可能か、さぐっていくわけだ。

後輩たちと四文屋で二次会をする筆者

 DJしていてもわかるがカットアップやサンプリングはなんでもあるがゆえになんにもないかのような此岸から起こる。てか、夢の島となった世界から起こる、世界は夢の島であるしかないわけだ、もう。
 それを主体的なセンスで統一すること、それ自体にバロウズは抵抗をもつ、そういってもいいだろう。
 エズラ・パウンドは精神病院にちゃんと送られたわけだしね。

 んだから、シュールレアリスムがクソつまんねえのは、ブルトンを筆頭としたシュールレアリストたちがクソつまんねえからなんだよな。
 アルトーまで更迭しちまいやがる。アルトーはほんとうにきちがいなのに。
 演劇なんて身体性ともなうから狂えるのは、ほんものの証しだよ。