本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

小説家になんかなろうとすんのってやっぱおかしいキビシサ――文学新人賞極私感

 きょうは酔っ払っていないし、こういうベランメェ口調で焚きつけるように書くスタイルって、いい加減によしたいのだけれども、たまには本当のところをさらけだす必要もあるのであって、つまりは「ハンチバック」、くだんなかったですね。
 わかってる、お他人さまのもん批判すんのはバカバカしいことだし、なにせ新人賞の小説なんだから、不備があるのはあたりまえだ。
 しかし、阿部和重のメディアがどう、とかいう新人賞選評も、小説として効果をあげていない効果を評価してもしかたがないわけで、ズレていると感じた。
 そんなことよりも、なによりも、「ハンチバック」が授賞をし、芥川賞を獲る、という事態が、たまらなく退屈なわけであり、遂にここまで文学は衰退したのか、という思いを新たにさせられるわけだ。
 アイデア商品みたいなもんですからね。昔っから「なんとなく、クリスタル」とかはアイデア商品だったわけだが、さらに浅ましくなっているし、文章力の平均も落ちてきている。

 つねづね云っているけれども、多様性っていうのは私は嘘っぱちだとおもいますよ。
 大きな物語とかいうのは時代遅れだとして、ハイデガーの故郷喪失でもいいし、デュルケームのアノミーでもいいのだろうけれども、人間から人間の陰翳がうしなわれて形がなくなっていく、人間を人間たらしめていた価値規範というのでもない、芯にあるもんがなくなっていった時に、なにが起こったのか。
 価値規範(という言い方にするけれども)というと、それがなくなったんだから、いいこっちゃないか、というと全然そんなことなくって、みんな画一的になっただけ。わかりやすくいえばスマホみてSNSやって、と。どうしようもなく凡庸で退屈になって、もう人間なのかなんなのかわかんない。
 その最後の抵抗としてなんとか搾り出されたタームが多様性、っていうだけだな。タームっていうのは、つまりほとんど実体じゃない、言葉なわけ。
 十割が退屈な人間であるがゆえに、自分はちがうんだ、と差異を強調させないと、もう人間そのものがもたない。
 ぶっちゃけていって、マイノリティなんてのは、大事でもなんでもねえだろーが。すくなくとも文学なんてもんを前に、オカマだったらなんだ、反社会勢力だったらなんだ、ってなもんでね、車椅子で生活しています、とか、そんな薄っぺらい肩書きだか生物学的差異だかよりも、昔のほうが、人間の天然自然にもつコクや味わいで、やいのやいの、多様な個性がひしめいていたわけだ。なにがニューロダイバーシティだって、なあ。正宗白鳥どころか、もうなんか武者小路実篤程度の「個性」すら、今の作家たちのなかにはないんじゃないか。それこそあいだみつの絵みてえな小説が「ハンチバック」なわけだろ(というとあいだみつをに失礼なんだが……)。なんかもうよくわかんねーけど。

 小説の新人賞なんて、もう、やめちまっていいんじゃねーの。
 文學界新人賞みたいなのに二千とかの応募数があるのって、一体なんなのか、っておもってしまうよね。
 まず、半分、千人はなんにも知らないバカなんだとしよう。仮にだよ。仮の話。実際は千九百人くらいがバカなんだ。
 で、とにかく、残る千人はなんなのかって。それがもうわかるようでわからないのは、小説の世界が、ほんとうにどん底、最低の世界だから。
 大手の文学賞を獲って、芥川(直木)のルートに乗って、編集者にこれで獲れなかったらもう候補のれませーんとか云われながら小説ちまちま書いて、芥川賞獲って、あとは文学館の講演会とかに呼ばれて町田康みたいに「文学」にスポイルされて終わっていくわけだ。
 講演会場でいい気になって「言葉の力」とか云っていればいい。
 あとは地方名士系統ね。福島だと、古川日出男がそうなっている。「福島フロンティア大使」とかになっちゃえばいいわけだ。
 まあだから、パンクで立派な仕事を残したひとが、「文学」によってもののみごとに、無惨な生き恥さらしてしまう羽目に陥るわけじゃん。
 権威と、制度とで成り立っている世界。小説家になるってのはその泥水に飛び込むっていうことでね、そこに放り込まれたいがためにみんな、大手の賞に書いたもん送ってんだ、そういうこったよ、要するにね。
 パルプ小説版のバルザックの「幻滅」みてえなもんだ。
 よくってそう。よくって、っていうのかね、こんなん。
 まあ普通に新人賞獲って、五百部、単行本が刷られて五万とか稼いで芥川獲るほうへと行くわけです。芥川獲ったところが今時、本なんて初版千部とかだろ。
 一体、なんのために小説の新人賞があるのか、っていうか、そこに送るのか、「小説家」になりたいのか、っていうのは、かなりシビアな問題でね、要するに小説家になりたいバカっていうのは単に「格好いいから」っていう動機が大きいんだろうが、「言葉の力」式のクソダサイ制度と、セットになってんだよね、それは。くりかえすが。
 金のために小説家になりたい、なんてバカは落ちる方の千なんで、小説の場合は無視。
 どうしても小説を書きたい、小説を書いているしかないから、っていうので、送るわけか。
 結局、そうでしかない。
 どんな分野でもそんなもんでね。
 書ければいいんだ、楽しく書きたいんだ、とか云って賞に送るという行動を起こさないやつは、駄目なんだよ。それだけで終わっていく。
 文学フリマとか行きながら、新人賞なんてあんなの、とか云っている奴も、駄目。論外。マジで使い物になんねー奴等なの、そういうの。
 いっぽうで新人賞なんての、当てにしている、既存の文学の権威と制度を当てにしてんのも、駄目だろうね。
 まあだから、そういう私みたいなのは賞にちゃんと送る、というアマチュアとしてまっとうなことをしながら、文学賞くだんない、というその意思表明はしっかり、しとくべきなんだろうね。
 私はね――電子書籍は出そうと計画していて、でもそれに絶対に完結させないで、一応ちゃんと送るということは、する。それでいいと、私は私なりにそう結論づけている。
 小説家めざすってほんと、駄目だとおもいますよ。夢とか、なんとか云うがね、みっともないし、クソダサイ。
 つくづく小説家っていうのが、イヤでね。日本の小説も、十割くらいはイヤだとおもっている。
 年とってくると、本当に物理的に「読めないもの」が増えていくから、いいよ。そうすると、読めないものばかりになっていく。話が逸れてきたから、こんな尻切れで終わらせるけれども。