本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

小説が成長を導くという気のいい幻想について

 むかし、書店の人文書新刊棚にベートーヴェンについてのアドルノの本が置かれていて、それを手に取って帯に書かれてあるアドルノの言葉(うろおぼえで不正確ですが)、「ベートーヴェンの音楽上のキャリアはヘーゲルの弁証法そのものである」、という言葉をみた時、私はなんでかしらないけれども、本を手につかんだままで爆笑をしてしまったことがある。
 見栄とか、スノッブな意識とかではないのね、もう、なんだか笑えて、笑えてしかたがない。
 そのままの事態に、そのままの言葉がシーツみたいにすぽっとかぶさっているそのあり方が、フランクフルト学派のこの哲学者にしては素直に過ぎていて、可笑しい、というか。
 だからそれって難しいことなんだよな。
 とくに文章家の場合には、よく、言い聞かせておく必要がある。文章を書くことの努力、といえばそれは努力というものはあろうが、しかし言葉に対する努力とは一体、ぜんたい、なんであったのか。
 この問いかけは、単純に、ひとが小説を書き続けていくうちに熟達していく、ということにさえ該当をする。小説が上手くなる、というのは、歴然とあって、評価をされなければならないのだけれども、いったんその評価、という物差し、文章の世界での相対的指標を取り払ってしまった時に、意味していたものとはなにか。なんであったのか。
 あるいは、一作を書き、それがたとえば……個人的な内容の小説であったとしよう。そうしてその個人とは私のことであり、医師の話であったとしよう。地方の診療所の話が一人称「私」で書かれる小説ができる。
 そして、その小説を書き上げた作家氏は、自分の能力の限界をさらにひろげたい、あるいはそこをみてみたい、と実感をする。あるいは、おなじことを書き続けるわけにはいかない、不誠実である、といったことを感じる、と。そうして、三人称の小説で、医療業界に切り込んだ、小説を書く。一人称の私小説から、山崎豊子の「白い巨塔」みたいなスケールになっていく。ナイチンゲールについて書くでもなんでもいいけれども。
 するとその作家は自分が自分のキャリアを築いているという、一種の職業的正義感を抱くわけだ。自分は成長をしているのだ、ということを感じる。そして小説にみちびかれている、ということを感じる。
 だが、小説がひとを導いていくことは、希有な例だ。
 村上春樹は「小説によって絶望が救われるということはない。けれども小説を書くことによって絶望について、より具体的な地図を持つことができるようになる」といったことを言っている(うろおぼえで引用文としては不正確)。まさしくヘーゲル弁証法的な書き方というよりも、生き方だ。しかしそれによって現在の枯渇がある、という、言い方ができてしまう。
 たいがいは、そうなっていく。
 そもそもが小説を信仰することによって、小説に救われてしまうことは、小説家としてあってはならないことであるし、見放されるということ自体も、字義通りにとらえるのならばあってはならないこと、ということになる。
 小説を一本書いた達成感や、満足感のうちに、調子づいたことを言っていてもしかたがないんだな。
 むろん、巧拙、というものはある。
 才能もある。
 残酷なというか、まず、厳しい、厳しい道だよ。
 それは、世界、業界であるというのよりも、道だ。
 書くことそのものが孤独であるのはあたりまえであるし、そんなものには闇に目がなれるようにとっくになれているとしても、すがりつけるなにかなどないし、防波堤もない。
 言葉というものの外周をただ廻っている、村上春樹になぞらえていえば絶望の周りをうろついているだけでいるしかない。
 いえ、ね。
 きょう手に取った富岡多恵子が書いていてね、小説を書くことによってなにかになっていく、というような気のいいことは自分はおもわない、って。そうそう、とおもって。
 けれども、気のいいこと、か、ハハハ。

 気のいいこと、か。ベートーヴェンが気のいい奴だったか、どうかはともかく、
 それを、ひとが言っているのを聞くと、笑うよね。笑ってしまう。
 なんか、そういうことをおもっていて、最近ね、その笑いにひとまずは、ガス抜きさせられたな。
 フランクフルト学派の眉間に皺寄せた単純なひとことをフェミニズム的な明け透けな言い方によって笑いとばす。
 いま世間でフェミニズムなんてーと評判わるいけれども、小説家のフェミニズムってのは、たまに本当にいい。富岡多恵子なんて。ほんとうに大好きな作家なんだ。
 まあ、そんな笑いも、アリだよな。

斑猫

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