本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

嗚呼、日本文学

「赤い鳥」のレコード盤をひと揃えで買って、それというのは、我が師・伊藤整が「赤い鳥の本」の監修をしていたからという、その事由もあるのだけれども、ようするにこういう世界に惚れていたいんだよね。自分で云っていて自分で嫌気が差すし、「文学なんて……」というスタンスというのか、醸成されていった価値観というのですらない、――なにを疎んじてなにを愛好をするのか、その芽をださせて花を咲かせる私の存在の土壌には、「日本文学」、「純文学」への不審感がたっぷりと含まれていて、それは私当人でも否みがたい、どうしようもないものとしてある。

 小説っていうのは十九世紀のものだとおもっている。近代小説が、スタンダールの、バルザックのそれが、小説だとおもっているから。
 けれども日本人である以上は、どうしたって坪内逍遙から三島由紀夫までを私にしろ、ガキのころに「日本文学全集」とかでずらっとひとそろい、読んで来たわけで、それが文学的経験であったのかどうかはともかくとして、愛憎相半ばする経験であったのにちがいもない。なにをおもって十七歳のガキが谷崎潤一郎の「細雪」なんていうものを読んでいなければならなかったのか。
 ともかく、いろいろな作家を知り、神保町を歩いていればああコイツも井伏鱒二の弟子で、とか、コイツは今はしられていない第三の新人の一人で、とか、ブツブツとやっているのは、むかし覚えた詩を暗唱しているような、ある種の心地良さを私にもたらす。そのことから、私は目をそらすことができない。ただただ、「それでも日本文学なんてのは……」とうそぶくというよりは、直情をさらせばそうなる、その自分をみつめていることしかできなくなる。
 それは硯友社がどう、自然主義があって漱石がどう、といった日本文学地図であるのと同時に、ある種の私の身体にしみついてしまった、抜き差しがたいなにかでもある。どうあれアンビバレントでしかなくなってしまった、一滴の愛とたっぷりの憎と。