本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

昔はスマホゲーの看板みたいな感じで小説本の看板があったもんさ

「私の母が伊藤さんの伝記、すごく気に入ってくれたらしくって……」
「あれはひとがいいひとには受けるようにできている」
「私の母もいわゆる昔の文学少女って感じでね」
「太宰治とかだ」
「そう。太宰治とか。伊藤整は知らないかも。タイトルをいえばわかるかもしれないけれども……」
「お母さんの世代だと知らねえやな。どのタイトルも……『なになにの十二章』くらいじゃないかしら。いまとなっては読まれていない作家だかんな。むかしはすごかったんだぜ。村上春樹とまでいうと言い過ぎだけれども人気作家だったからね、銀座なんかに、こう、がーっとでかでかと看板が出てさ、そう、ちょうど今のスマホゲーの看板みたいに、『伊藤整の新刊!』とか出ていたわけだ」
「時代を感じるのう」

 そう婚約者と車のなかに話をしながら、そうか今でいうスマホゲーだ、あれは、と私はものおもうのだった。
 むろん、それはただのメディアの変遷というのだけにはとどまらない、変遷、なのであったが、そしてこうやってメディア論のほうに流されていくのもイヤなのだが、しかし、ノルベルト・ボルツがとくに「世界コミュニケーション」あたりで言っていることっていうのは、このへん、当たっているんだよね。こいつはボードリヤールをさらに頭わるくしてつまりはロックにしたような、極端なメディア論者なんだけれども、時間っていうのが寸断されていく、というようなことをたしか言っている。
 読書行為っていうのは今の感覚にしてみると、非常に悠長な道楽だよ。Spotifyで音楽を聴く、というのでも、映画を配信で観る、というのでも、なんでもいいのだけれども、それと比較をして非常に悠長な、ものさ。なにせ、映画館のシートに座って映画を観る、というのよりももっとうんと、根気が要される、作者との協働作業といってもいいほどの行為なわけだから。
 私なんか、映画を観ている間、映画を観てんだか時計観てんだかわからないくらい、九十分映画でもこらあかん、っていうやつに当たった時は、時計ばっか見ているわけだけれどもさ、九十分では済まないからね、ディケンズを読んだり、あんな脂ぎったバルザックとか、あんな胃もたれどころでは済まないドストエフスキーとか、ね。今だとピンチョンとかラテンアメリカの長篇になるのか。
 それは、時間性の豊かさに出会うっていうことでもあるんだ。読書の時間に身をゆだねる、ということでもある。

 ところが時代が変わり、身体が変わった。紙の本の読書っていうのは人間にとっては、ちょいと着ぶくれのする服を身にまとうってことになっちまったんだね。
 まあ、ちょっと変わった服をきていますね、くらいでまだ、かろうじて、済んでいるのが今の時代だ。たぶん。
 けれどもスマホゲーってなんだろうな……時間をズタズタに切り裂いている。
 もう、ヒマだから、その隙間を埋める。
 埋めていくためだけのものだと、わかっている、わかっていて、わざと夢中になる、依存症になる、そういうところ、あれ、あるよな。
 電車の待ち時間とかがとにかく退屈なんだよ。
 そして山手線で優雅に文庫本なんて開いてらんねーけれどスマホ開いているのは、自然だし、変ではない、てんで、みんな、スマホでゲームをしている。
 だからこれは酔っ払いの極論をいえばさ、今、多様性社会とかいうモードなわけだ。世界的に、時代の気分はそうなってきている。
 それってインターネットの中性的な、いわば力動なんかなぁ……求心性が、そうさせているということなのではないか。
 レッテルを貼るっていうのも省略だよね、性格分析でもなんでもいいし、あいつはゲイだ、自分はゲイだ、あいつは障害者だ、自分は障害者だけれどもなになにで、っていう多様性社会の様式美っていうのは、他者、っていうよりかは、「人間」というものと向き合う時間を省略する前置詞なんだよな。
 時間を破壊をすること、その方向性に、どうであれ、むかっている。
 出版業界がふるわねぇとか、そういう、泣き言みたいなのはしらない。
 けれども、必然なんだよ、本なんてものが読まれなくなるのは。
 それは小説っていうもんがもっている、なにか、とかはもちろん関係のない次元での話だがね。だがそういうこっちゃ。
 たいへんだよ。
 たいへんだけれども、やってくしかねーよ、そら、ね。