本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

伊藤整に就いて

 批評精神のはたらきと、小説を書く(書いてしまう)はたらきとは、おなじ文章のかたちで表現されていっても、まったく別々のところから出てきた、まったく別々の性質の文章なんだということ、これは忘れてはならないことだ。
 今みたいなSNS時代では、なんていう、くだんない言い方はなしとしてね。SNSなんざもとよりどうでもいいや。
 島田雅彦っていう頭のいい方の作家がいるじゃないか、批評家的な作家、といってもいい。
 彼は、たとえば小説も明白にヘタなほうだったし、料理のレシピ本があるのね。
 それで、矢作俊彦も料理をつくるんだが、ある人に言わせれば島田雅彦よりも矢作俊彦のほうがつくるメシが旨い、って。
 それって、食ってみないでも両者を読み比べてみると、すごく、よくわかるんだ。
 矢作俊彦は小説についても、上手の部類だったし、文明批評的な批評精神を小説の文章に落とし込む能力についても秀でたものがある。
 こういうのを才能というのだ。

 たぶん矢作俊彦がほんとうに凄いってだけで、島田雅彦を才能がない、っていうのはちがう(なんせ芥川賞も獲らずに、なんというかそこは自力で、ちゃんと作家生活を続けてこられてきたひとなわけだ)、高い水準での比較になってくれているから、今こうして私は二人について書いているわけだが。
 批評的な文章を小説の文章に落とし込むのって、力もいるし、それで華がでたりでなかったりしちまうから、むつかしいわけだ。
 ひらたくいって芥川龍之介は今でも、読めるけれども、正宗白鳥なんて読んでいたってなんにもなりゃしねえところがある。

 そこで、師匠の話になる。
 伊藤整は本当にそこがすごかった。
 評論文を書かないということに決めてから、化けた――化ける、ってあるんだね。小説家で化けた化けなかった、って気易く言うもんじゃないよ。それが簡単にあるとおもっちゃいけない。あんなすごい化け方、みたことがない。
 もちろん、流行作家として注目をされていたからという緊張感もあっただろうが、評論文を断って、「生の三部作」が出た。
 「伊藤整の生活と意見」あたりっていうのはね、英語読めるようになったひとが、しばしば退嬰的になるあの感じが出ちゃっていたんだけれども、「若い詩人の肖像」からはじまるここらへんの書き言葉は、翻訳文をそのまま日本語としてあつかうような、日本語の文章の筆頭なんじゃないのか。片岡義男とか、村上春樹が、それを初めてした、みたいなことになっているけれども、ちがうと思うのね、伊藤整がやったんだよ。
 「氾濫」も「変容」も「発掘」も、全部そう。とくに「氾濫」「発掘」なんて、本格小説になっている。
 水村美苗が書こうとして、足許にも及ばなかったけれども、そいつをやってのけたのは夏目漱石いらいだね。
 私は伊藤整の歿後弟子なんだが、いかにして伊藤整に惚れたのか、今のこの書きぶりでわかってもらえると思う。
 酒の飲み方は、いい方ではなかったし、旨いものもあんまり食っていないみたいなんだけれども。
 うーむ。酒はともかく、旨いもん食いながら、伊藤整の後塵を拝するこの旅路を、続けていきゃいいじゃねえか。あんまり深くは考えねーことだ。なにせ相手はほんものの、巨人なのだから。私がそう、決めた人間、なのだから。