本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

本格小説について

 本格小説、というタームがSNSのタイムラインに流れてきて、おもわず二度見をして、ああなんだ、誤用か、そうだよな、とものおもう。
 まあ正直にいえば本格小説もわからないのか、という話だが、嘆いていたってしかたがない、たかが小説の話なのだから。
 本格小説、というのは「本格ミステリ」とか「新本格ミステリ」とかいうのとは、違うわけですな。取り敢えず「新本格」はヤヤコシイ理窟をつけたくなるから、除外するか。「本格ミステリ」とはちがう。
 「本格ミステリ」というのはなにを言っているのかというと、ようは他のミステリ小説よりもちゃんとしているぞ、っていいたいわけだ。
 つまり、市場のキャッチコピーなわけ。
 それで、「本格小説」っていうのは、キャッチコピーとはちがう、もっと歴史的含意のある言葉なわけです。
 それはふつうの読書人であったのならば嵐が丘とか、ディケンズとか、なんとかを読んでいって分かっていることなんですけれどもね。
 最近だと、水村美苗がチャレンジして無理だったのだけれども、日本で「本格小説」を書いたのは漱石、獅子文六、伊藤整、村上春樹。
 あとだれかいたっけか。
 まあ、いいや、それ以外はいないでしょう。

 それで、私は「小説」が書きたいのではなく「本格小説」が書きたい。――それが私の限界ということなのですが。
 世間一般で「小説」と呼ばれているものが本当にどうでもいい、それと一緒にされたくなくって、なくって、しかたがない、自分がやりたいのはあくまでも「本格小説」なのだ、というのが私の態度。そこになんとか辿り着きたい、それを目指しているのだということを、これからの書くものでなんとか出していければと、宿願している。
 それは、ただ真面目に書いていますよっ、ということを言いたいのでは、もちろんなくって、そういうテクストの構造があるわけですな。
 だから手本とすべき日本の小説家は、どうやら手のひらがひとつで足りるわけです。
 梁石日とか加賀乙彦が挑戦しつづけて、できなかったやつが本格小説、というと分かってくれるひとも多いでしょうね。ネットで検索してもこういうのは、わからんです。
 あんがい、村上春樹の読者たちは、よく身体で感じてきたことだとは思うわけですよ。「羊をめぐる冒険」以降の小説は、ディケンズとかバルザックとかをあくまでも読んできた村上春樹という人の、特質というか、それらと共通したポリフォニー的な性質が多く有されている。構造の点では弱いけれども、タッチ感をつくるのが、春樹は強かった。
 ですから、それってストラクチャーの問題でありキック感の問題でもあるから、バフチンのポリフォニーの概念同様の混乱を招いてしまうのだけれども、まあ確かにありますわな、本格小説というものが。高橋和巳は優れた作品だけれどもこれはそうはなっていないな、とか。どっちかっていうと全体小説だよな、って。
 ところで、漱石、獅子文六、とならんでいると、やはり日本では「小説家になろう」なんていうサイトが今、あるけれども、つくづくおかしなネーミングで、小説家になりたくない人こそが、小説家になっていくんですよね。一時代を牽引する小説家となり、リバイバルをされてゆく本物の作家となっていく、そういう傾向が本邦にはたしかにある。そしてそれというのは私はすごくよく分かる。
 ごくおおざっぱにいってしまうと、本邦では、本邦のアルシテクスト性――これぞ文学でござい、という参照項に、もたれた小説が小説、とされてしまう。
 そのいっぽうで、本当に小説なんてどうでもいいや、読書は人一倍しているし海外生活も長くしてきたけれども、というような人が、ポロリと本物の「小説」を書く。
 この無情さ、残酷さ。死屍累累たる「小説家」たちの生きながらにして死んでいる、墓場の世界、業界の、まあ、虚しさですな、虚しさに、どこまで耐えられるか。耐える必要なんてそもそもあったのか。
 結局、なんでひとは小説家になんてなりたがるんだろう、あるいは小説家ごっこなんてしたがるんだろう、という処にまた、もどって行くわけですが――そうすると本格小説の話なんてどうだっていい、というヤカラみたいなひとたちは、承認欲求のためだ、とか、カネのためだ、とかわけの分からないことを言い出すのかもしれませんが、それはそれで、いいのでしょう、商売とかが成り立っていくのならば。