本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

本読んだり小説書いたりしているとモテるか否か問題

 この歳になってふとおもうのだが、小説なり、本をひとよりも読んでいることや、本を読んでいることによっていろいろなテクニカルタームだとか文学史的な知識を身につけていることって、くだんないと(ふと)おもう。ふと、というこの「ふと」にはこれまでは満更そうともおもっていなかった、かもしれない、という逡巡がふくまれている。
 ようは降りてしまったのだ、ともいえる。
 これは冗談でいうつもりでもないのだが、あるいは「本当にキレてしまった」という感じでも、あるのか。
 なんていうか、いきなり下世話な話にするけれども、たしかに本を読んでいるとモテる。モテなかったら嘘ですよ、嘘。嘘だとおもう。
 もちろん、モテようとおもって読むひとはモテない。すぐ底がついちゃうから。
 「ファクトフルネス」とかダイヤモンド社とかから出ている啓蒙書や、ビジネス書みたいな本ではなく、ふつうに神保町がよいをして裸本の岩波文庫を漁ったりして、カレーでも食べていれば、モテるようになる。
 というのは、海外文学でも日本文学でも、そういうものを読んでいるひとというのはやはり一定数、この世界にはいるわけであって、それについてくわしい私なんぞのことをみると、へんなふうに勘違いしてしまう、それだけで奇貨をみつけたふうになるんだよ。
 そもそもが、ひとが小説家になりたいのって、小説家がかっこういいから、とかいうのが一般的な人びとの間ではあったりするわけで、世の善良な読者っていうのは、小説家ってかっこういい、という憧れをなんとはなしに、持っているものなのではないのかしら。憧れというほど無垢ではないな……すくなくとも、リスペクトをする感じ、というと今度はそれはあたりまえになっちまうか。
 だから、芸人だからね。それはまちがいがない。知識人ではなく、小説家って芸人なんだ。
 タレントなわけだから、その筋からみれば、それはまっとうなわけだ。
 それで、そのかっこういい、が、こっちにまで(書いている私というよりは「人より多く読んでいる私」にまで)投影されてくる、というのはある。
 でもそれもふくめて、どうでもいいじゃねえか、とおもう。
 大口たたくとモテんのもつまんないですよね。
 小説についていろいろ訊かれても、そもそもが、小説なんてどうでもいいわけだし。
 スタンダールとかバルザックについて訊かれたら、そりゃあもう、必死に、ノリノリで、その娘にモテようとするんじゃないか。
 それ以外は、じつに、ほんとうにどうでもいいの、ね。
 世に「小説」と言われて今、販路をもっている商品に私は、興味がないし、言葉の力、だとか、物語を紡ぐ、だとか、くっだんない言い回しを耳にするとそれだけで憤然と怒りにみまわれる。
 なにが「創作」なんだろう。
 理解不能だね。
 いまの書店とか、臭くて臭くて、大嫌いだもの。
 ひとまずは、国書刊行会が、水声社が、白水社が今度こんな本を出していて、というのはあっても、くだらないわけだ、とうの昔に衰退しきった、滅んだんじゃねえのかっていう「小説」と呼ばれているものが。そんなものに若くはないのだからもう騙されないよ、というのも、あるし。
 だからこの記事の教訓としては、モテる、モテないについては、モテるためになにかするっていうのはモテないからするわけだろう、――その時点でちょっと無理があるんだよ。自分の魅力を高めたいというのならそんな邪念を振り払う勢いでギターでも、音楽鑑賞のほうでも、とにかく突き詰めてやっていくこった。邪念がなくなってきたら本物なんかねぇ。わからん。
 どうせ、どんな分野でも突き詰めてやっていくと、ひとまずは地獄みてーな世界だな、と感じ入ることになるんじゃねえのか。
 すくなくとも、小説は、そうだった。
 だから、こっちに来てくれよ、地獄のほうへ、とさそってみればいいのか。おいおい、鈴々舎馬風師匠の落語みたいになっちまって、あんま趣味がよくねェや。