本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

社交と読書

 じゃあきょうは、――友人にさらりと訊かれたことを切っ掛けにして、前の日のモテる、モテない、みたいな世にもくだらない文章を書いたわけだけれども、もうちっと、建設的にそれを敷衍していこうか。
 とはいえ、まあ、といったところから。
 たしかに、社交術としての読書というのはあるわけだわな。
 フランスなんかだともうふた昔も前になるが、ミシェル・フーコーの本を本棚に飾っておけないと、女を口説けないぜ、みたいな気取りが、ちゃんとあったりした。
 そうでなくとも、まあ、「ファクトフルネス」を読んでいる異性に、あなたは興味をもてますか、っていう話だ。「ひろゆき」とかいう人が書いた自己啓発本とか、メンタリストなんちゃらとかいう人が書いた本を、鞄から出してしまったその一瞬で、アンタの恋愛っていうか、精確にはその前の段階の「社交」に、失敗しちまっているわけだ。そこにはもう階層性といっていいまで強くて頑丈な段差があるのね。そうおもったほうがいいよ。
 人の世ってのはおっかなくて、みているひとは必ずみている。
 横溝正史の、気持ちの悪い、ダサいあの表紙の文庫本は、電車のなかならばいざ知らず、レストランになるともう、駄目だな。取り出してはいけない。
 太宰治をはずかしげもなく人前で開けるような男はどうしようもねぇわけだし、漫画雑誌みたいに分厚いミステリを開ける女は、もうその時点で気が効かないってわかるわけじゃん。
 そんなのは、差別的な言い方で、読書行為とは関係がない、と言うかもしれんが、ね、だとしたのならばそれは大きなまちがいだ。
 それは、一冊の本を選ぶ、書店であれ図書館であれ選書をする、という行為というか手つきそのものに、他者の目をふくませることができているのか、どうか、と、言い換えればそういうことなんだ。
 つまらない本をいやいや選びながら、つまらない本だという前提を、なくしてしまう、感度がなくなってしまうと、ここらへん、美の問題というのはすごく繊細で、落ちる人間っていうのはどこまでもたやすく、速く落ちることができてしまうからね。
 せっかくいいものを積み立てて来たのに、全部、台なしにしているな、という人は、田舎だと悪目立ちするし、都会には都会でありふれているわけだが。
 結局、向上していこうというのでは、それこそ自己啓発的なケレン味がありすぎてイヤだが、拡張をしてゆこう、自分の感性を推しすすめて行こうとする、志向性をちゃんとみていられるかどうかが大事なんだよ。
 一冊の本を読むためにはいろいろな手広いジャンルに手を伸ばさなきゃなんないという事情もあるしね。
 好き、とか、キライ、とかさ、大事ではあるけれども、なんか、いっぽうですごくくだんないじゃん。私が好き、私が嫌い、って言ってんでしょ、自分がかわいいって言っているわけだ。
 そうではなく、人前で恥ずかしげもなく出せる一冊の本、つまり自分の美学が詰まった本を出せるか、どうか、っていう、ひとまずはそういうことだね。
 そこでデリダの本とかだしてしまうと、くだんない。
 あるいはさ、田舎の人間で東京にも行ったことがない人が、小林信彦、とか言っていると、ああ小林信彦のことも自分のことも、なにもわかっていないんだなコイツ、となったりするわけだ。デリダのほうが増しか、ってなる。
 白洲正子とか、そうだけれども、昔のサロンなんかでも、かならず、女性がいる、っていうことが重要なんだね。
 異性の目線に耐えうるかどうか、っていうのは、べつに大時代的な言い方をしているつもりは私個人としてはないのだけれども、やっぱり男の側からすると、大事なこったな。
 覚悟がいることです。
 目の前に究極の女がいたとして、そいつがなにかを喋っている、華美な服を着ている、その時に、どのように美を語るのか……。
 そうかんがえれば、モテる、モテない、っていうのもまあ、軽薄なだけの話にはならない、っていうことになってゆくわけだね。