本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

宗教ぎらい

 いかに私、ひとりが悪態をついていても無駄だ。
 そもそもが、ときおり世界は美しいのだと、そう私に感慨を迫ることがある、それを私はどのように屈託をして、嗟嘆をして、たとえば地方のメシのまずさにぶちキレながらも、知っていた筈だ。
 たとえばある昔のクラスメイトがいる。
 幼年期の陰惨な記憶をもち、人生の過酷さにたえられずに、環境活動のような社会運動に今となってはとりくんでいるガール。彼女はアメリカに留学していた姉を、事故で、うしなったんではなかったっけ。その悲しさというのはわかち合えないものであり、その径庭をふまえた上で、「活動」にいそしみ熱心であるというのならば、私にはそれがわかる、わかる、というよりは、心の底で共感をしているがため、どうわかっているのか、なにがわかっているのか、理解、あるいは認知ですらない分かり方をその時に、しいられている。
 言語化できない、ただわがと胸に温暖な作用を賦活させるなにか。
 そのようにふっと、アロマーなけむりをたてるお香でも焚いて、内省的にでもなっているその瞬時とは、しかしいつも一瞬で、にんげんというのはまったく、弱いから、それを展延させて日常の生活の上においても把持に努めるなどということは、どだい、無理にできているし、そうでなければ社会などというものの運用には支障がきたされる、個人にたいする個人的な共感や、あるいは対話のごときものなど、社会は振り向きはしないし、それが通貨のようなものとしてもちいえるとでも、思っているのならば、その私はたんに未熟な私であったというだけのことだろう。

 社会活動や、ましてや宗教などというものによって救われるような、廉価な絶望を、絶望として捉える必要などひと匙もなかったし、定型化された教訓のようなものによって身体のどこかを支えているくらいならば、トルストイの登場人物の説教親父の長広舌でも読んでいたほうがまだ増しだ。宗教。私は宗教関係者ならば、キリスト教徒であろうと、禅宗の坊主であろうと、そのすべてに最大限の軽蔑を払って已むことがない。
 私のあまりすきではないメディア論者のボルツは、芸術などというもののすべてはデジタルの海にかき消えていくのだとものした預言的な著作のなかで、しかし宗教だけは別だ、とした、宗教だけは特権的な地位を変わらずに持ち続けるのだ、というその意味で、つまりは最大限の極端な、差別的な意味合いにおいて、私は宗教家を嫌い続ける。理由? 聞くだけ野暮だろう。文学徒などというものはこの世を地獄として捉え、そうしてその地獄を徹底してゆかねばならないのだ。救済もなければ、徳育などというものもありえはしない、この世界には虐待とレイプの手本が、てごろに転がっているくらいなのであろう、とおもっているくらいのものなのだから。