本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

人生に大切なものとしての仕事、友人、喪失――ニール・ヤングの「Bird's」をそえて

 われら人間たちの人工物でありわれら人間たちを魅了する、金貨で金貨を買収する空騒ぎがおわったのちに、なにもない時代、なにも変わらない時代、長い長い余白の時代が、半世紀も過ぎて、この嵐のあとの静けさはもう静けさではない、たしかに静けさから耳を、目を、背けたいがために私たちはリーマンショックに注視をし、あるいは、プーチンの戦争の動向を日々、うかがう――不遜なことをいうつもりはない、不謹慎なことをいうつもりはないのである。恐慌が、地震が、戦争のような大きなことが、たとい起ころうとも、私たちの実存に大きな変化はなかった、あるいは「人間」は変わらなかった。より惨めで、空疎で、なにもない時代のなにもない影のごときものへと日々、降格をしていっただけではなかったか。「多様性社会」などという美辞麗句は、「人間」から「人間」が失われていく、最後の余滴への抵抗の小唄、というよりは辞世の句にしか、私に、おもわれない。

 それでも時として私たちは情熱としか言い様のないなにものかを糧として生きる。情熱。情熱は情熱だ。それがある時には、あってしまうものなのだ。そうしてそれがある時には、ある以上は、交換の効かない何か、としてそれがあってしまう。しごとに賭ける行きすぎた熱意と、銭、金のかわりに熱意の交換をできた友のことを、ともだち、と呼ぼう。仕事と友人。それがあれば、男、なのだとおもっている。しかし男という美学的な選択をしようが、なにもないこの時代では屈託も多かろう、しごとといってもなし得るべきなにも用意がされていない、もとより空の空であった芸術の行為の先に、ほんとうの徹底された空、がなにかをみるためにこのしごとがあったのか、と途方に暮れて長嘆息をするほか私たちは、しばしば、手立てをなくしてきたのだ。それでも情熱はたしかにあった。うん、ある。今も燃えている。ただでさえ世界はくだらない、人生はろくでもない。そしてこの世界には希望などというものはひと匙とてないし、いよいよわれわれ、ごろつきどもは必要とされていないようだ。
 錯乱に近い芸術の作品を作り立てて、でっちあげたそのあととなっては、せめて針を落として、私たちの喪失がこのように豊かな喪失であったことを祈ろう。あり得ない豊かさ。それを夢見ることは可能なのだ。喪失は喪失だ。喪失を経てなにかが変わるとはもう思っていない、それでなにもないのだが。

 君を残して
 飛び去ってしまう僕を見つめる
 ほら
 落ちる影が……
 舞い落ちてくる鳥たちの羽根が
 君の行くべき道を
 指し示してくれている。

 もう、終わったんだ。
 もう、終わったんだ。
   ニール・ヤング「バーズ」

アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ

アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ

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 ロックが終わったのだということを先見的にみてとっていたこの歌手がうたう頃、またひとつ、戦争がはじまろうとしていた。それから世界はいくつもの戦争を経た。