本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

創作論は反創作論である――中原昌也と古井由吉の対談をそえて

 古井 そこなんです。それが年がいったら、自分が書いているんじゃない、誰かに書かされているんだ、という気がしてきたんだ。といっても、私は出版社とかマーケットが書かせてるっていうほどの作家じゃないですからね(笑)。なにか、言葉そのものが表現を求めているんだろうなと思ってやってます。中原さんの小説(「名もなき孤児たちの墓」)のなかで面白いことが書いてあってね。「『誰の欲望も満たすことの絶対にない』小説を書いてみたい」と。「道の脇にある雑草のようなものを書きたい」と言うんだけれど、その草の葉から「悲痛な叫びのようなもの」が聴こえて気持ち悪いとも書いてある。
 中原 ええ、そうですね。 
 古井 それからまた、「自分の書いた原稿の活字の一つ一つが、誰の意向とも関係なく何かを伝えようとしていようとして、必死にもがいているような気がしてくる。それが本当に気持ち悪い」ともあった。それは同感でした。そういう意味の悪さは当然自己嫌悪となって跳ね返ってくるわけで、それをどう乗り切るかの問題なんですよね。言葉のほうもね、自分から働くわけにはいかない。書き手つまり人間の手を借りなきゃならない。向こうもいやだと思ってるよ(笑)。こんな野郎のねばっこい手にかかって、どうしてこう下手なんだろうとか、どうしてこんなにもってまわるんだろうとか。
 中原 言葉そのものがそういう文句を言ってくれればまだ楽なんですけどね。
   『古井由吉にズバリ訊く』中原昌也「人生は驚きに充ちている」所収

 この対談に触発をされて、自分なりの反撥の意味をなんとなく、込めた上で(私はこういうレトリックを、好まない、自分の感覚とすることができない、という意味の文章をほんとうはこう引用をして、まず、書くつもりでいた)下記の文章を書いたのだったが、なんとか書き切ったところで読み返してみると、いや、分かるな、と一周まわったのか、まったく納得がいくようになってしまった。へんなこともあるものだ。触発とはなんだったのかも、反撥がなにを意味していたのかも、今となってはどうでもいい、おそらくはこの対談と微妙に重なる部分をもっていても、以下は、基本的には関係のない私の文章なのだろう。

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 取り敢えず「制作」と書くことで落ち着いているのであったが、小説らしきものを書くということにかんして、やれ執筆だの、創作だの、制作だの、としかたもなしに喋々してしまうことが途轍もなくけんとう違いなのではないのかと、その時に直観されてしまう、あるいは生理的な反撥を覚えてしまう。
 その、むずがゆくなるような居心地のわるさは、他人がつかっているのをみていても感じるし、他人のことは他人のこととしていいとしても、自分がつかっていればなおのこと隔靴掻痒といったていで、とかくこの件にかんしては、苛々とさせられる。
 大体が(といってしまうと話は終わるのだが)作家として活躍する人間の九割以上はいっとき流行作家になったとて歴史に埋もれて、死後ひと月もすればだれからも忘れ去られ、あんなものは作家でもなければ、あいつの書いていたものはたしかに小説などではなかった、と了解をえるのであったから、それは、当たり前といえば当たり前なのだ。その地点からすれば「小説」を「執筆」するなどと、臆面もなくいえる私ではなかった、しかし脳足りんであるにちがいはないが、というのがひとまず、ある。
 そうして、そもそもが散文作品における「作品」とはなにかといって、作品はたしかに作品なのであるが、それを書こうとした欲望や、情熱や、あるいは単にキーボードを打鍵する手指の動きの一定の高まりにそれが本当に釣り合って「かたち」(という言葉も嫌だ)になるとされる、その状況そのものが、すくなくとも「書き手」(という言葉もばかばかしくて嫌だ)の側にたった時には、まったく納得がいかない。私たちは物語、とされるもの、みずからそう名付けて、そうしたものについて、はじまりをつくり、終わりを作るわけであったが、(はじまりは置いておくとして)その「終わり」というのは本当に創作行為とされるものの行き着いた先、臨界点のごとき地点と、フィクショナルなものを今、ここでやり終えたとする意志と一体の職人的な直観なり、手応えのごときものと、ほんとうのほんとうに折り合いがついているのか、ついているといったところで、それがどれほどのことなのであったろうか。多くの現代の小説作品、そのものと同様に、その行為じたいがくだらないのであって、愚かしく、馬鹿馬鹿しく、目も当てられない、そういった所作なのではなかったか。
 「制作」がなんだったというのか。
 さらに目も当てられないほうへと進めば、物語が自分を導いてくれる、物語が語りかけてくる、登場人物がひとり歩きをする、などといった「作家」の慣用表現化された言い分などというやつほど、いい加減であり、無責任なものはないのであって、そのような曖昧なアナロジーの生まれるところに、「言葉の力」やら「創作」やらといったこれもまた曖昧な、しかしがっしりとした制度にもたれかかった、猿真似的にして、「純文学」的なる、アルシテクスト的な心性が芽生えているのだ、と、それをだれにも否定ができなかっただろう。ヤタケタに、自傷的に、やり込めるようにいって、そのようにして、文学が文学とされる地平から生まれる文学、なぞというものは文学的ななにかであって芸術はおろか、作品ですらない、創作ですらなければ執筆されたものでもないなにものかとしか、おもわれないし、その点でいっておおよそすべての作家の創作活動、などというものは私にはポーズにおもえてしまう。すくなくともハリボテなのはたしかだ。
 かくして作家ごっこが、ごっこ遊びとして繁栄をきわめるということは、本当の意味における文学が衰退をし忘れ去られていくということであり、とはいえ天才たちが歴史をつくるのだといった史観にたてばかようなことは今にはじまったことではない、いつの時代もそうであったわけであるが……。私にとっての、私のみる「現代」のそらぞらしさ、小説家をめぐるこの空位は、ただ空位としてあるのである。