本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「福島で小説を書くことって可能なのだろうか」

 田舎ぐらしってのは退屈だ。無責任なものでね、連れと一軒家を借りて、同居をしたあとに、そんな文学者らしい野放図な、残酷なことを、おもいつくようにできていて、できているんだから、しかたがない。そうでなければ甲斐性もないと、こちとら、おもってしまっている(まーたこういう記事を切っ掛けで喧嘩するのかよ、と、いまから憂うつだけれども)。
 だって福島だぜ。
 福島で小説を書くことって可能なのだろうか、とこれはしばしば、おもったりするよね。
 夏目漱石どころか、徳田秋聲がいなくって、まぁでも北の岩手なんかに行ったら、行ったで宮沢賢治の博物館ばっかり建っていて(どころか宮澤賢治カフェーとかあったりしてね)、それよりかは増しなのか、なんとかまぬがれたか、ともおもうけれども。
 定期的に通っているクリニックが(ビョーキなんです。詳しくはプロフィールのところを見て。ついでに投げ銭もしてみようか)本郷という、ひどく味のいい、久世光彦のクリムトの贋作を描く小説とかあったよね、ああいう処にあるから、どうしたってそんなことが気になってしまうのだとおもう。

聖なる春

 書いている時には考えないけれどもね、書いていない時に、あー数寄屋橋のオーバカナルとか神保町のビヤホール、ランチョンとかが近所にあったら、幾らでも名文を書くことができるのに、とか、なんとか、考えるわけだ。
 酒のつぎっていうか、セットとして、畢竟、メシの話になる。
 ――余談だがあのね、食レポとかよくやっている奴で、酒、飲まないひとっているでしょう。レビュー数でも稼ぐために酒を飲まずに定食を一膳、食って、それではい終わり、ここは美味しかったですって、いう奴に食レポなんていうのする資格ねえんだよな。酒がもつ身体性っていうのかな、酒を一杯かたむけながら向き合うのと、そうでないのとでは、話がちがう、世界の見え方が本当にちがうね。まあそれはいいとして。
 メシって、本当だいじだから。
 最近の文芸誌の日記みたいなのみたらさ、かりにも作家と呼ばれているひとが、コメダで文章を書いた、スタバで書いた、って、みてらんなかったもの。なんでそんなことをするのだろうとおもうよ。
 やりやがるよ。
 おまえ、おれは自信がないよ、チェーン店でいい文章を書くのよりも、ちゃんとした店でタイプしたほうが、一字、マトモなほうにちがっているかもしれねーじゃん。その一字になんとかして、こだわれないもんかね。
 と、田舎ぐらしだとそうなるから、イヤなのさ。
 人間歳とると歴史や、美食に拘るようになる、みたいな言い方があったけれども、ちがうのね、そうじゃない、旨いメシ、燃料なしに、うまく人間ってのは運用できるのか、どうなのか、私にはわからないところがある。
 いい小説読むと、絵も知らなきゃなんない、音楽も聴かなきゃなんないで、大変になってさ、そのうちでもべつに、ディレッタントになろうとしないでも、日常生活と切って離せない、それが食なんだ。そこではたえず審美眼が試されていてしまうおっかなさ。
 たとえばそれはさ、音楽まわりの友だちとと、タランティーノの新作を観たあとに、なんか映画でお腹いっぱいだし、日比谷だから歩いて有楽町の「キッチン大正軒」までいこうぜ、って、そこで揚げ物を食う旨さとか、そういうのも全部込みだよ。
 フラリと入る「よし田」の蕎麦の、盤石の旨さ。
 激戦区のラーメン店の、一杯のどんぶりの、ネギの切り方ひとつにさえ執着をしている、きめ細かさ。
 ヒリヒリと戦っているメシ屋のメシを食って、ありがとう元気を貰ったといって、各自の、文化的活動にいそしむわけだ、イヤ、べつに笑うところじゃないというかそれで笑うのならば好きにしてみろよ。
 田舎だとそこがないから、困る。
 困るっていって、どうしているんだ、って訊かれても、だから、困るんだよな。
 東北地域限定の和風ファミリーレストラン、とかで、昼からビールあおりながら、原稿に赤ペンとか入れたり、していましたよ、先日とかは。なんかファミレスで「ハリー・ポッター」書いていたっていう女流ファンタジー作家みてえな、悲愴感が、ただよっちまって(笑)。どうしようもねえや。