「X」(ダッセェ名前だ)のタイムラインに流れてきた猪瀬直樹の古い本の書影をみて、AIだかなんだか、やっている人が、猪瀬直樹を推薦するのかいな、ここらへん、IQが落ちすぎだろう、とおもっていてしまう。
いや、落合陽一さんのことなんだけれど、パフォーマンスをみたことはないし、大学の先生としてはユニークなひと、なんだとおもう。
それでまあ、人文科学なんてどうでもいい、っていうのは、言っていればいいという話なのだけれども、人文科学がどうでもいい、というのと、人文教養がない、というのとでは、全然べつの話なんだよね。
猪瀬直樹の本読んでいるのなんて、人文教養がそもそもないひとだよ。そっちの分野だから、それでいいんだって、なっているところが、現代だな、という感じがする。問題はそこなんだけれども、ね。専門化が進む、分業化が進む、というのも埃かぶったステロタイプなんだろうけれどもさ、まあそれが先鋭化しているということなんか、なんなのか。
皆が皆、バカになっていっているのは確実なんだよ。
たとえば、なんかネット上だと、西村博之なんていうひとがカリスマ的な人気をまだ持っているみたいだが、このひと自体も、このひとを好きなひとも、人文教養ってないわけだ。でないと「1%の努力」とか「がんばらない勇気」みたいな(編集者がつけた題だろうけど、それを許してんの、当人だかんね)、昔でいうだれなんだろ、加藤諦三系統の自己啓発本を書かないし、その本を書いているひとに、近づこうともしないのが、タシナミということになる。
動画では博之は格好いいぞ、とか言われたって、ほんらい、動画サイトでそんな動画観ているなんて(つまり、すこしでも真面目ぶった動画つーか。ちゃんとした講演のそれとかじゃない、専門家でもないひとが自分が賢いってパフォーマンスぶってるような動画?)、ひとには隠すべきことだと思うのだけれども。
でも、さぁ。そんなことを言っていてやんなるのは、底部にふれているから当たり前として。
ある/ないとか、言うのがおかしいことでね、昔の女性なんていうのは、そこいらに転がっている女性(失礼)でも「アンナ・カレーニナ」なんて分厚い本を読んでいたわけじゃない。で、男の子はマルクスにかぶれて。そのかぶれてる男を尻目に、なんかしら、読んでいるやつらがいたわけだ。ドストエフスキーでもなんでもいいけれども。
昔は、今でいう時代小説なんて読んでいようものならば、父親から変な本を読むな、ッて叱られていたもんだが、今はラノベを読んでいても、叱ってくれる人はいないわけでしょう。女の子の強調した胸とかが描かれたイラストがメインの小説とか、山手線で読んでいて。なにが? って思うわけだが、それが多様性社会とか、言われているわけだ。
みんなバカになっただけじゃねーか。
「昭和」とかいうのでかたづけてもらいたくないのだけれどもさ、そうした密な構図というのかしら、空気なんていうもの、光ファイバーの洗浄機かけられて今はもうなんもないね、身体に悪いもんも、いいもんも、全部吸われて、なんかさらっさらの空気に浸潤されてしまった。
人文知っていうのはそもそもが、SNSてか、ネット空間と、相容れないものなのだよね。
ネットでなんか知りたい、ってきょうの夕飯のレシピを調べて、つくる、という一連の流れを阻害するような、一冊の本を時間をかけて読む、その時間性と心中するしかないのが(心中なんてなんかものものしいけれども、そう、ものものしいのですよ人文知は、それで現代人が付き合ってくれるかどうかは、二の問題よ)、人文知、哲学でも、まあ文学とかハッタリで呼ばれる小説も、そうだわな。
それでなんだっけ。猪瀬直樹だ。それで、っていうのも、情けないね、心底どうだっていいじゃねえか……。
だれでも知ってることだが、ノンフィクションの書き言葉って、水物のナルシシズムと結託しちゃうんだよ。
猪瀬直樹ももろにそれ。
沢木耕太郎とか、いちいち、引用してらんないけれども、エエカッコシイの文章ね。
本田靖春あたりというか、彼はしっかりとやっていた。
ノンフィクションっていうジャンルは市場的にいくら確立されていようが、ノンフィクション・ライターってのは、例外的にしか、生まれてなんか来なかったですよ。
たとえば……「私は事件の真相に迫っていった」、「血みどろの惨劇」、みたいな文章。こういうのがどうしても入って、よむにたえなくなる。
ラヴクラフト的悪文よりもっとひどい、ジム・トンプソンあたりを地でいっているいつものやつ。ジャーナリスティックな、アガサ・クリスティとか。ロス・マクドナルドみてえな駄文。新聞記事にして読ませようもんなら、その記事が書かれた新聞でくるんだ焼き芋が臭くて、臭くて、食えなくなるような文章ってあるじゃん。
カポーティみればわかるよ。ケルアックとかバロウズからすれば「正統」を行っていて(そりゃ当然だ)、コケにされていたのがカポーティ。そして重厚な、まさしく「正統」な文体で「冷血」を書く。
ところが日本で、ノンフィクションというと、水物になっちゃうんだよね。
「殺人犯はそこにいる」みたいなのとか、なんでもいいけれども、ミステリー小説派生のスカスカの文章になってしまい、文章への自意識がないがためにナルシシズムとすぐに結託をしてしまう。
いや、自意識つーか……書いている自己をふくめた、対象との距離感、そのバランス感覚。なんて高級なもん求めようがねえから、うーんと、なんつうんだろう、ふつうの文章の地力だわな。え、だって周りのひとみんなこう書いてるじゃん、こんな感じじゃん、ていうところで開き直ってしまったジャンクな文章っていうのが、この世には幾らもありますよ、そら。
ミステリー倶楽部の連中が、離れ小島に修学旅行に行ったら、偶然、密室殺人に遭遇してしまって、とかいう、そういう筋立てだけでバカバカしくなる本、ていうとそれはちがうか、ちがうけれども、そういうのは、本として読まないのでもいいのではないかな。
だからこの文章の主旨として、確実にいえるのは、そういうので芋を包むと臭くなるから、やめた方がいい、っていうことか。なんか南千住あたりで玉ねぎだらけの牛丼とか、食っていればいいじゃん。よくわかんねーけれど。