本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

本をだきしめて(七)

 では意識的な選択として、一体私たちはどのような人間であることを、選んでゆくのであっただろうか――私たちは誤ったのだ。根本的な過ちを経た。青年期において、雑多な書物を読んできた私たちは、その選択肢の幅を大幅に拡大してしまう、という過ちを犯した。実際に、ある問題設定というか、ある人間の実存的な容態において、読書行為とは、そのような事態を招来してしまう行為にほかならないのである。本邦における例として、芥川龍之介のことを考えてみることができよう。彼は広汎な領域における読書をしたことによって、中国が舞台の小説を、西欧が舞台の小説を書いた。あるいは彼の二十幾つで書いた処女作はタイトルからして「老年」であった。彼が読書をすることがなければ、彼が彼のように書く、ということは起こることはなかった。ディレッタントとしての読書人が、ここでは誕生をして、小説を書こうとしているのだ。ここでいうディレッタントとは、「自分はどのようにでも書ける、どのようにでも生きることが可能であり、そのことに自負と責任感をもつ」、およそそのような意味合いになるだろう。それがゆえにディレッタントである芥川は、長編を書くのを不得手とした(じつは短編小説も明らかに不得手であったとおもうのだが)。書くことができなかった。長いものを書くということは、ディレッタントである自らを放棄をし、なにものかになる、ということにほかならない。読書家としての、――彼の場合においては創作行為によって正当化をされる性質のものであった――全能感、万能感、どのようにでも生きる、どのような世界の息吹も知悉をしているかのような、自己像を、壊さないよう、壊さないように維持をすることが、彼にとってのひとつの知的な誠実な営みであり、それが書くということと有機的につながっていたわけだ。

 ひとつ言っておきたいが、ディレッタントというものには古書の匂いがすること、またはゆったりとした読書の時間の流れがそこに含まれていることが、重要であるとおもう。インターネット時代は情報化社会であるとされ、私たちは所与のものとして、ディレッタント的な知をというか、条件であり、環境をあらかじめ約束をされているけれども、インターネットでもたらされる知識には、時間性がないのである。むしろネットに入れ込むほどに時間はぶつ切りにされ、断片化をしていく、あるいは通知が気になってしかたがなくなってしまうような、バカげた神経症的な状態に追いやられていくだけなのだ。知識を得ることとはウィキペディアに任意の文字を打ち込んで情報を得る、ということとは、決定的にかけ離れているものがある。知識とは、想像的なもの、あえていえば錯誤の自由すら許されている性質のものなのである。テクストのなかにある本来そこに書かれていない行間までをも舐めるように読み、みずからの創意をさえまじえながら、時間をかけてゆっくりと活字を開くこと、――そこで起こっていること、私たちにもたらされているものとは、ただの文字列によって還元できるそれではない、私たちの身体であったり、世界の知覚へまで関係を有するそれであるのはいうまでもない。国会図書館のオンラインを開く時でも除外をしておくとして、あとは、インターネットはお呼びではない。インターネットによる情報化などというものが成されて、一体なにが起こったかといって、モラトリアム期間の増大や、致命的なまでの大衆の幼児化が進んだだけであり、知的な側面においてみれば「せいぜいが」草の根レベルの陰謀論者を多く輩出しただけだろう。

古書往来

古書往来

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 ひとつの本棚のもとに、カトリックの信徒の書いた小説、ドラック中毒者の小説、モラリストの小説、ポルトガルの詩人の書いた散文集、……あらゆるテクストが混在をし、互いに反発をし合っている。それが私たちの本棚だ。私たちは(けしてなし得ないことだが)それらの和合を試みたり、カトリックの信徒とドラッグ中毒者の散文のいずれが好みであるのか、いずれの価値観に重きをおくのか、いずれの文飾を良しとするのか、さまざまな試練にかけられ、同時に、それらのうちのいずれの人物に同化を試みたいというのかを、試される。若年期における一冊、一冊の重みは、そのどれもが新しい価値観の展開であるという点で、衝撃的であり、センセーショナルであり、一冊を開くごとに迷宮は迷宮としての様相を整えていくことになる。つまり、行き場をなくしていき、通路であってすらもがたしかな通路ではなくなり溶解をしていくかのようだ。そこでは、図書の分類法のごときものに意味はなく、ひとまずは私たちの混乱をきたした意識があるだけである。なにものかになりたいという欲望は、なにものにでもなれるのだという読書家であることに由来をした欲望と結合をし、そして未だなにものでもない自らのことを、私たちは知っている。