本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「まあ田舎の平凡な母親」――坂口安吾「おみな」、村上護「安吾風来記」

 私が小説家について勉強をするように読むはじまりとなったのが坂口安吾で、それは柄谷行人がハイデガーとならべて称揚をした、という奇妙な文脈にのってのことではなく、彼が「吹雪物語」という小説を書いていたこと、そして今ひとつは彼が毒親そだち、のように当初、みえたからであった。今でも坂口安吾の「堕落論」を、というよりも、安吾そのひとを考える時に、「おみな」という小説について考えてしまう。

 九つくらいの小さい小学生のころであったが、突然私は出刃庖丁をふりあげて、家族のうち誰か一人殺すつもりで追いまわしていた。原因はもう忘れてしまった。勿論、追いまわしながら泣いていたよ。せつなかったんだ。兄弟は算を乱して逃げ散ったが、「あの女」だけが逃げなかった。刺さない私を見抜いているように、全く私をみくびって憎々しげに突っ立っていたっけ。私は、俺だってお前が刺せるんだぞ! と思っただけで、それから、俺の刺したかったのは此奴一人だったんだと激しい真実がふと分りかけた気がしただけで、刺す力が一時に凍ったように失われていた。あの女の腹の前で出刃庖丁をふりかざしたまま私は化石してしまったのだ。その時の私の恰好が小鬼の姿にそっくりだったと憎らしげに人に語る母であったが、私に言わせれば、ふりかざした出刃庖丁の前に突ったった母の姿は、様々な絵本の中でいちばん厭な妖婆の姿にまぎれもない妖怪じみたものであったと、時々思い出して悪感がしたよ。
   坂口安吾「おみな」

 いつも通りの失敗作なのであるが(全集をひととおり眺めわたした時、安吾という作家は成功した小説よりも失敗作のほうが多い作家である。安吾は父親についても「石の思い」で不満を述べ立てているのだが、「風と光と二十の私と」につらなるこの系譜は、いずれも出来の良い作品に仕上がっている)、実際に家は質素な暮らしぶりを強いられていたものの、安吾の伝記のなかでは存命中の作家の周辺人物にあたっている点でもっとも重要な村上護の「安吾風来記」を開いてみると、事情が垣間見られる。

「母という人は、炳五が書くようなんじゃなく、まあ田舎の平凡な母親でしたよ」と、坂口上枝さんは語る。
「それにしても、政治家の家は表面はいいかもしれないが、裏は火の車のやりくりというのが実体だった。そのため子供たちが遊びに使う金などももらうことはなく、日常は質素な生活でした。安吾は意地っぱりだったから、それが不満で、直接には母に反抗したのかもしれませんね」
   村上護「安吾風来記」

 安吾の場合には、ただボーダーラインパーソナリティ障害というよりも、「虚言」をキーワードにしたほうがいろいろと分かりやすいところが見えてきただろう。眼鏡を買ったらサングラスで学校に行くことができなかった、だの、精神疾患になった、だのというのも、あらゆるところで疑ってかかる必要が出てくる、ただ自己演出というのでは済まされない、なぜこのようなことを言ってしまっているのか、と時に呆然とするようなことを、安吾は平気で書いてくる。その傾向は、観念小説的な結構をもった「白痴」に活かされているだろう。
 どうあれ、彼は実母というものを文章中において、許すことをしなかった、辛辣にあたったわけであったが、このように書くことの疚しさというものから、人は無縁ではあれないと私はかんがえる。それは、実際に、(私の母親のことだが)統合失調症の母親をもった人間にしても自分を不遇だとみなして、妄想に振る舞わされ罵声を浴びせかけてくる母親のことを酷い母親だ、となじるみずからの心性なり、それらにまつわる自己言及をして、疚しさから逃れることはできないのである。シック・マザーはシック・マザーである、という合理的な言い方は一面で正しく、それ以外にはないようにみえるが、――こういってもいいだろう。母なるものというよりも、一個の人間に対する対し方として、万全な態度などというものは決してあるわけではないのだ、と。そこをついて出るのが私のいう「疚しさ」であり、疚しさとはしかるべき誠実な態度を用意せざるをえず、その出方は色々である。

 蔵書目録などをみるともとから安吾の場合には、歴史や、精神分析といったものによる、全体性への欲求があった。それはディレッタント的な傾向として、世界のすべてを書物によって掌握せんとする態度への用意であり、ある程度はその自負も安吾は、有していたものとおもわれる。それによって彼が潜在的に惹かれていったイデオロギーは未来派である(日本における無頼派、というのは、なによりアヴァンギャルドの謂いである)。まあそれは、いいとして、「堕落論」というのはディレッタント的な誠実さから出てくる言い様にほかならないのであり、みずからも「堕落」をきたしたという内省もそこには含まれている以上は、彼は知的であったのだ、ということになろう。そこには野放図な、言いっぱなしといおうか、ロマン派的なレトリックが大いに作用をしているとも感じられるし、「吹雪物語」のような小説にむけて二度と筆を執るまいとする(事実彼はもうあのような大作に挑むことはなかった)意志としての「堕落」なのであったのならば、単に、情けない、理知的に情けないという非常に不思議なテクストなのであったが。