本とgekijou

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「荒々しい線で絡み合う男女」――池上英洋「官能美術史」

 萌え絵が好きである。あの爬虫類のような瞳で目が描かれた、フリルのたくさんついているようなきわどい衣裳を身につけさせられた、美少女キャラクターたちのことが、である。それは美術と対照にあるものであり、対照にあるものとして適切に世間一般でもあつかわれているが、いっぽうででは美術にまつわる理窟などというものも、じつに軽薄なそれではなかったか。もちろん、萌え絵の軽薄さとはことなる位相や水準でのことなのであったが、知識を身につけて美術をみる、ということが美術館がよいなどをしてオリジナルをみる機会を多くもっていると、本末顚倒の気がしてならなくなる。それは、こちらが未熟だからであるのだが、いわゆる知識が邪魔をする、ということがままある。

 鹿島茂が書いていたのだが、ルーブル美術館で絵をみていたら、脇に来たフランスの親父が「ええ乳やなぁ」と感想を洩らした、という。たしかに美術館は女の裸身の宝庫であるのに、ちがいもあるまい。もちろん、では「ええ乳やなぁ」がけがれなき芸術をみる目、でみた本物の感想なのか、といえば、それは一応は違うと、云いたくはなるし、おそらくはちがうだろう。ちがうだろう、というか、美術品を前にして適切とはいえない、別種の純粋さがそこでは発揮をされているだけである。
 「官能美術史」でレンブラントも男女の営みを絵に描いていたと、初めて知った。

 少なからぬ大画家たちが性交場面を描いた。激しい体位のラフスケッチを残したアングル。荒々しい線で絡み合う男女をとらえたジェリコー。風景画で有名なミレーや成功者ルーベンスまでもが、性の場面を写し取っている。
 〈フランスの寝台〉と名付けられたレンブラントのエッチング画は、男女の睦みごとをこっそりと描いたものだが、この画家の偉大な特質をよく備えている。実にこまかな線刻。黒一色とは思えない濃淡。主たる対象とそのまわりの空間を、画面にバランスよく配置した構図。そしてなにより、神話や聖書の主題だけではなく、庶民のごく普通の生活や、そこでのないげないショットをも等価な主題としてみる独特の視点。A5紙大にもみたない小品ながらも、この版画は、一切の美化を排し、現実的な庶民のセックスそのものを純粋に描写したはじめての作品となった。
   池上英洋「官能美術史」

画像はレンブラントの「バテシバ」

 それにしても絵画の解説というのは、わざわざ「夕陽のような赤」だのといった文学的修辞にのがれずとも、事実を淡々と列挙をしていくだけで成立するのだったから、すばらしい、とこの文章にまで、私はなにか溜め息をつくようなおもいを抱いてしまうのだったが、たとえば、文章作品を前にしてこうした解説を加えることは愚かしいのであって、そもそもがおなじ文章なのである以上その実物のテクストを読めばいい、というのもあれば、中上健次であれ村上龍であれ村上春樹であれ、そのセックス描写を今、卒業論文のようにして取りあげること、その営み自体に、着手するより先の無力感をもってしまう。たしかに性描写は、作家と作家の間の差異を強調づける重要なそれではあったのだったが、セックスそのものはこんにちにおいては、イデオロギーとして成り立たない。描写をする文章そのものに作家性はあっても、書かれるセックス自体は身ぐるみ剥がされた代物にすぎないためだろう。

 スタンダールの「赤と黒」に集約をされる、宮廷恋愛、社交空間における恋愛を世界は失って以降、性描写は小説の世界においても、瀰漫をしはじめる。「赤と黒」の主人公はレナール夫人を前に、恋をしているという真情をひた隠しにかくし、建前の世界で立身出世をとげるわけだが、社交空間なきあとには建前はもちろん、隠されることによって密度をたもってゆく「真情」、恋愛感情も、すくなくとも、稀少な代物へと成り下がってゆくこととなる。恋愛がかつてあったような純度の恋愛として成り立たなくなった、その時代以降におこるのが、プルーストの直接の影響を文体にもちながらその文体で倒錯的に性を描いたジュネであり、ヘンリー・ミラーまで来れば、あとは現代、ブコウスキーの頭がみえてきたか、となる。ブコウスキーによって描かれるのは、なげやりなまでに包み隠したところのない、セックスであり、かといってそこでは抑圧された性の解放やら、奔放やら、が売りにされているわけでもない。ただ、セックスが無味乾燥なセックスとして、書かれるだけである。もはやそこでは、セックスはロレンスやミラーが称揚したような意味を失い、イデーとしての力を失っている。そしてそれは、もちろん、いかに大久保公園でさかんに売買がかわされている今であっても、変ずることはないのである。