本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

本をだきしめて(六)

 閑話休題。前々回のつづきとして、書き継いでいくことにするのである。「読書行為」というのは、読書によってみずからを迷宮へといざなっていく行為と相似ており、それは私の陳腐な言い方にならっていえば「地獄」に似た様相を、帯びることもある、という話なのであった。

 私たちはどうあれ、あるひとつの圏域のなかに各人がとどまっている。そしてそれをイデオロギーの問題であったとするのならば、そのイデオロギーについて、しっかりと知ること、自覚をすることが重要なのはだれに指摘されるまでもない、あたりまえのことなのだ――このあたりまえができていない、自称右翼、自称左翼、自称フェミニスト、自称リベラリスト、……にSNSなどは、溢れ返っている。彼らのことはどうでもいい。みずからの感性が、外部のなにかというか、既定の言説群によって言い当てられるそれであったとしたのならば、それらの言説をまずは押さえていく、みずからの感性や、価値観とは、歴史のなかでどのような役割を負ってきたのか、それを知り、自分なりのやり方によって消化をして自覚をする、という径庭を踏まなければ、私たちの言葉は、自律をした、私たちの言葉として、垂直性をもった響きをたてる有効なそれとなることはない(せいぜいがSNSでインプレッションと曖昧な同意を稼ぐ程度の有効性しかもたないわけだ)。こう言ってもいい、あらゆるイデオロギーはインチキである、と。インチキとまでいわずとも、右派であれ、左派であれ、それは歴史上幾度となく反復されてきた言葉をくりかえすオウムのような存在に、みずからおめおめと成り下がっていくのに過ぎない。まずはそれを認めなければならない。そのインチキさ、みずからがオウムであるということ、みずからがオウムの言葉で語っているのに過ぎないということを、つとに自覚しつつ、オウムであってなにが悪いのかと一線を越えるように語りだすことが、この現代という、なにもかもがキッチュで、ときとして薄っぺらになってしまった時代の相における、ほぼ唯一の知的な誠実さなのだ。ものを書く、語るという行為はそれ自体野蛮な行為なのであったが、別種の野蛮さを、現代において書く、語るということはともなわざるをえないのである。

 私たちはどの時代、どの時代に生まれたのであったとしても、ひとりの人間であり、そしてひとりの人間としてこの世界に、なにほどか意識的に生きようとするのならば「政治」や「公的なもの」から逃れることはできない、そのように言ってみてもいいだろう。みずからの言葉に責任をもつ、「意識的である」ということは、書物を媒介とするかたちであっても、社会に対して働きかけるということ、影響を受け、影響を与えようとする営為であるのにほかならない。または私たちは、異性にむけてさまざまな画策をして、その興味をひきつけようとする――これもまた「政治的」ないとなみにほかならないではないか。スタンダールの「赤と黒」を読めば、恋愛こそが政治の最たるものであるということが、よくとわかるだろう。