本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「岩は砂礫となって海に溶け、峰の頂点は青くかすみ、群青の空に融解する」――ウィリアム・マルクス「文人伝」、杉本博司「本家取り 東下り」前期

 すべて単純なものは偉大であるという言葉が音楽の方面にはある。それはフルトヴェングラーがベートーベンについて語った時に、もちいた言葉であったとおもう。杉本博司の写真についてどのように語ろうとも、いつものあの、まざまざとした単純さから私たちは逃れることができず、それを罠であるのかといちどは疑ってかかってみても、しかし単純さはすがたを変えずに、単純なかたちをとどめて、そこにあるのだった。それによって、逃げ道がない、救いがなくなってしまう、という心地を私はいだくのだったから、杉本博司の展示には、行かずにはいられなくなる。作品じたいが「単純」であり屈折とは遠いだけ、私はそれを屈折していることだ、とおもう。もちろん、第一に、作品展に行くというのはけがれなきファンであるのだからだったが──それは、その大きさゆえに、同時代を生きる芸術家としてこのひとを尊敬する、というのが、村上春樹を尊敬する、というのと同等になるくらいまで、平易な意味合いになりかねないのが困りものだけれども――、みずからが徹底的に窮地にたつことの心地よさとは、芸術作品と向き合うことの純粋な快楽でもあるのであり、しかしすべてが、ストンと、落ちるように明快に、合理性をもって、心の中心にせまってやまない体験となり、その体験に濁りが、みられない、杉本博司をみるとはそのようなことだ。圧倒されてはいても、混乱や白熱はあっても、つきあってやるようにこちらが思惟する余地と必要はなく、すべてが雄弁にかたりかけてくる、単純な顔をしているがゆえに。

 幾世紀もの堆積によって、望ましくないほどまでに知は損なわれてしまうだろう。手稿は失われ、テクストは腐敗し、理解は断片化する。岩は砂礫となって海に溶け、峰の頂点は青くかすみ、群青の空に融解する。知がすり減るのは避けられないのだ。しかし文人の職責が、こうした作用にもてあそばれるままにならないよう命じ、現実を、わたしたちの前に現れるものとしてではなく、当時そうであった現実としてとらえるよう命じるのだ。再構成された岩に押し潰されようとも、断片を拾い集めなければならない。それこそが知識人のドラマあるいは悲劇なのだといえる。
   ウィリアム・マルクス「文人伝」本田貴久訳

 長年に亘ってさまざまな小説や、絵画や、映画でも、表現されたものと対していると、この作品が後年まで残ることはあるのだろうか、という不純なような疑問がふっともたげてくることがある。それは、不純なことではない。私のなかで、そのようにして長い年月をたえて残ったものが、スタンダールが、ドストエフスキーが、そのようにして文学の中心に今でも鎮座をしているのだったから。杉本博司の作品をみていて感じるのは、これらの作品であれ、残らないということがあるのだろうか、という反転をきたしたある感触なのだ。それは芸術作品に対する単純な評価であるのと同時に、感想の一種でもある。このように単純なしるしのようなものであれ、残らない、ということがありうるのだろう、ということに、私は戦慄をしいられる。ならば、歴史の偶然性の振り子のなかで、私は、私たちは、もてあそばれているだけだったのか、と。