本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

「このたびの大学闘争は」――高橋和巳「生涯にわたる阿修羅として」、新本格ミステリー

 地元で福島翻訳ミステリー読書会、みたいなのをやっている左派イデオロギーにすっぽりとかぶれているおっさんの、読書会に参加したことがあって、あなたにとっての純文学とは何か、という議題になったことがある。私は、真面目に墓参をしている人間として、伊藤整の名前を挙げ、そこには和漢朗詠集をはじめとして海外のものを自国のものとして取り込んでいく日本的な風土の感覚、なによりも翻訳文化のつらなりのなかで小説を書いていく感性(翻訳調で文体をつくりあげていく。後期の伊藤整の長編は、片岡義男や村上春樹の小説に先駆している)をさして、なによりも贔屓の作家だというので伊藤の名前を挙げたのだったが、京極夏彦を読み、レイモンド・チャンドラーよりもロス・マクドナルドのほうがいい、と平然と言ってのけてしまうようなそのおじさまが挙げたのが高橋和巳で、ああ、と腑に落ちた。ツイッター(当時)でアベガー、のような投稿を、リポストしまくっていて、かつ、読書の面においてもチャンドラーとロス・マクドナルドについての根本的な誤解(というよりも、……無理解)があり、京極夏彦を読むにさいしてもミシェル・フーコーなどの人文書を読んでおらず、ただ面白い、面白い、としかいえない。面白い、とか、明るいか暗いか、しかわからないのだから、今風の若者よりもこれってたちがわるい。

 ――一応、附言しておくと(今ちょうど新作がでているし)、京極夏彦というのはニューアカ絡まりのモダニストであり、とくに民俗学なんかについてかなり狷介な、そうまでいわずともやっかいな、(トークショーで山口昌男を否定したりだとか)ディレッタントなわけであり、彼の小説、とくに百鬼夜行シリーズを読むにさいしてフーコーについての知識、なんか「はじめてのフーコー」みたいなのでもいいから、それを身につけておくのは必須条件である。さらにいうと竹本健治の島田雅彦なんかよりも読みでのあるポストモダン小説としての推理小説や、中上健次論を書いて小説がしばらく書けなくなってしまった法月倫太郎、など、ミステリーの読者は安易に自己規定をして「純文学」を毛嫌いする傾向にあるが、ひとまずはポストモダニズムというか日本のニューアカ絡まりのリテラシーは身につけておかないと、ミステリー、とひとくちにいっても、要はイデオロギーに絡め取られてしまうわけだ。これは黒い水脈のころからそうなのだが、術中にはまってしまう。やすやすと術中にはまってしまう読者ばかりの今、ミステリーはキャラクター小説化して(メフィストの講談社の対抗馬として出てきたのが新潮NEX。古い話だ)、なんか文豪とアルケミストみたいなことになっていったのは、ようはミステリーを本気で読む読者がいなかったからなわけだ(あとはもちろん、時代を牽引する哲学者の不在)。有り体にいうとまじめにやっても、森博嗣みたいなただのバカと十把一絡げにされたりで、いいことがなにひとつとしてない。結果として、カッコイイ男の子だとか可愛い女の子だとのイラストが刷られたミステリーに、ミステリーの市場がおかされていったのが、平成の半ばだかそれ過ぎくらいのこと。――くわえて余談ですが、あれと地方の文学館みたいなのがコラボをしたりするの、けんとうはずれですね。ああいう文化表象というか、二次創作を媒介として、キャラの推し、みたいなのから小説に入っていっても、そこには小説に対する本質的な興味関心がないわけだから、いくら「史実」とかいうやつ、つまり菊池寛が芥川にこういうことを言った、とかいう世間話にくわしくなっても、小説、読めないまま終わる。興味をもってくれるならば、とか、期待するのはわかるが、興味関心はあくまでもイラストのほうにあるわけで、すごく簡潔にまとめちゃうと、読書なりなんなりがすべて「推し活」のほうに回収されてしまう、そういった枠組みなりなんなりからはみ出て、あふれ出てくるのが読書という行為への一般的な意味での欲求なんだけれども。

 高橋でございます。
 私は、常々、日本の資本主義体制を支えておりますものには、大ざっぱにいって三つの柱があるんじゃないかと考えておりました。一つは政治家を頂点にいたしまして、それに仕える膨大な官僚群と、その背後に控えております機動隊、自衛隊、警察によって構成される政治権力であります。第二は権力を自己増殖させながら、自らの利潤追求にのみきゅうきゅうとする大企業の資本家をはじめとする経済人、それを管理し推進する経営者たちであります。この二つは、今さららしく言うことはないんでありますけれども、この二つだけでは、いかなる体制も成立しえませんで、背後から隠微にそれを支えているもう一つの柱があるはずであります。それは、一つの体制をそうあるべきもの、というふうに言い、そうでしかありえないんだ、というふうに言いくるめようとする知的営為者であります。多くの宗教人、裁判官、医者、学校の教師、大学の先生などがそうであります。
 このたびの大学闘争は(略)
   高橋和巳「生涯にわたる阿修羅として」

 こういうのが高橋和巳の地声というか、小説になるともっとクサいわけである。だから問題はそのクサさというか筆圧の強さと、バカバカしく日本資本主義体制と、臆面なくいえてしまうところが、――いま一つはやっぱり出口王仁三郎の天才性っていつの時代も魅力的なんだけれども――「邪宗門」のような全体小説が生まれたわけであり、基本的には、小林信彦のような東京人が「やめてくれ」と鼻をふさぐような、作家なんだよな。大学闘争をする学生のナルシシズムを体現をしてしまっている。――だから、田舎のなんにも知らない、左翼かぶれということになっている(私はSNSで政治的左右なんて、自己規定すらできないとおもっているのだけれども)おっさんとかには、もう何十年おくれでウケがいい、ウケがいいのか、そうなのか、というのも、よくと理解ができる。そうしてそれは、高橋和巳の批判ではない(嫁さんもいい書き手だしね)。書き手と、読み手とでは、決定的にみているものがちがう、という話にも、これではならないか……ようするに平均的な層のIQが低すぎるのは、今の若者にはじまったことではない、という話になる。それがSNSによってさらに加速をしている。ミステリー作家は好きになれても、ミステリーの読者には、擁護ができないところがあり、それが平成時代であったか、という話なのだろう。丸ノ内線で京極夏彦の新刊の広告をみて、そんなことをものおもったわけである。