本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

本をだきしめて(四)

 資本論はおいておくとして、こうした私の態度はすでにして、当時としては「保守」寄りの態度とみなされるそれであったということは、附言をしておきたく思う。インターテクスチュアリティはナショナリズムと親和性が高い、……というような議論のレベルでもない。信じられない話だが、ひとつの小説作品を読むに際して、それが書かれた背景なり、テクスト間の影響関係なりを吟味し、検討をすることとは、歴史の重層性を前提とした態度にほかならない。この歴史関係をそもそもないものと見なすことが、当時の左派の大勢の見方であった。わかりやすい一例なのだが、オリンピックで高橋尚子がマラソンで金メダルを獲ったことを、素直に、いつものフランクさで称揚をしたのは石原慎太郎くらいのものであり、当時の左派陣営はこうした一事に対しても、腫れ物にさわるかのような態度で遇していなければならなかった。スポーツの世界であってすら、ナショナリズムというよりはみずからの住まう土地でありみずからの足許に広がるコンテクストとしての「日本」を支持したり、(スポーツの応援というかたちであれ)応援することがためらわれる一時代というものが、平成時代のはじまりから半ばまでは、歴然としてあった。その具体的な逐一について、取り沙汰をするのは止すとするが、インターネットが擡頭した現代において、かような捻れはだいぶ中和されていったという現状は、押さえておかなければならなかっただろう。

構造と力

構造と力

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 ともかく、嵐が丘でもオリバー・ツイストでも、カズオ・イシグロでも、それを読むためにはイギリスにおけるジェントリィであったり土地相続の問題といったイギリス史の要点を押さえておくことは、正統な読解のためには必要不可欠なことであり、それはフランス文学であれ、日本文学であれ、同様の歴史を、歴史性を抱えている以上、敢えて歴史性と名指しをしてイデオロギーによる色づけの操作をするまでもない、単なる「教養」であったということが、改めて明らかになっていった(それだけ大学生をはじめとした若者の知的水準の低下も起こったということなのであろうが)、というそれだけである。余談だが、であるから、昔の左翼イデオロギーにかぶれている、とされる人間はこの点を押さえることができていないため、致命的に読書が向いていない人間が多い。彼らには、ひとつのテクストを前に、歴史的知も人文知も必要でない、あるいは無用であるかのように思われているのだ。こうした人間はレイモンド・チャンドラーなどよりもロス・マクドナルドのほうが好きだ、と平然と言ってのけてしまうし、高橋和巳の小説が好きだ、二・二六事件が好きだ、と大時代的な左翼根性を丸出しにしてしまう。みずからが、ひとつのイデオロギーのなかにすっぽりとおさまっていることに、彼は不幸にも気づくことができないわけである。

邪宗門 上

邪宗門 上

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 たしかに、一部の文芸理論や、美学といったものには党派性はついてまわるが、今ここで取り沙汰しているのは「読書行為」の問題であるとすれば、イデオロギーとは、まさに今いった意味で使われるべきである。自分の感性や、思考を規定しているものとはなにか。それをどのように乗り越えるようにして、自由に考え、感じることができるのか――それが若年期における私の常々考えていたところのものであり、私の読書行為はそのような拮抗とともにしかありえなかった。それはどのような気楽な小説を読んでいても、地獄であるかのような期間だった。あらゆるテクストのなかに明示された価値観と、べつの作品上に示された価値観との間で、ゆられるというよりは、強くゆさぶられ、動揺というのでもない混乱をしいられる、あの地獄については、どのような形容をもちいても表現をすることはできない、それ自体でドストエフスキー的な地下室の世界であっただろう。