本とgekijou

書評のようなものを中心としたblog

本をだきしめて(二)

 私がいまだに「趣味は読書」という言葉に違和感しかもてない、その状態というのをすこしは、垣間見ていただけたのか、とも思うが、結句それはお他人からの納得も、もちろん共感や同情も求めていない、どころか納得されることにも共感されることにもすぐと反発を仕掛ける性質の、違和感なのだと思う。私は世間一般の人びとの言う「読書」なるものにおよそ軽侮の念しか抱かぬ。電車のなかで本を読んでいる人のことをみても、それを下らぬ本なのだろうとしか思えぬ。てんから私はひとのことを莫迦にしきって見下している。社交の場における私のことではなく直情の私のことをいえばおそらくそうなるのだろうと思う。スノッブは人に優しくせねばならぬ、というもっともらしい諫言などに耳を貸す要もない。
 それは世人のリテラシィの落ちてきているから、という事態を指してのことではない。いつの時代でも「新本格ミステリ」なぞを読んでいるきりで読書家をきどっていられる層は山ほどいるものだし、そのぶん上澄みの層というものも、一定の数がいるものなのだ(彼らは国書刊行会の本もみすずの白い本も、どんなものも読んでいるし、映画も観ている)。そうではない。ハロルド・ブルームに「反読」という概念があるが、――わざわざそんな概念を持ち出すまでもなく、読書というのは、すこし考えればわかるとおりテクストと協働的に「物語」を作り出すことなのである。そして、物語作者であらんとする人間は、それゆえにフェアな読書を、透明度を保った読書を、しようと試みる――下の下の読書家というのは、自分の人生体験をテクストにまま反映させてしまう。やれ、自分はこのような家庭環境であったから谷崎の「細雪」では長女のことは嫌いだ、だの、自分は昔こういう経験があったからこの話はイヤだ、というのでは、「読書」が成立しない地点で、物書きというのは読書という行為に取り組んでいる。今風にいえば、「考察」などというものが最悪の例である。新海誠の映画や村上春樹の小説、京極夏彦の小説などを読み、適当なアナロジーやイデオロギーによる意味づけを施していく「読み」。これなぞは読みの自由にもたれかかって勝手に自分で物語を作っているのに他ならない。
 そのような身勝手な独創を離れて、作品にフェアに向き合う、作品の、作者の置かれている状況なり、影響の関係を、背景をしっかりと知悉をした上で、ひとつのテクストが生まれているのだということに、公正を努めること。そうでなければ共感は共感ではないし、理解がありえるのだとしたのならば、理解が理解ではありえなくなってしまう。これがその当時も、今も私の考える読書なのである。コミュニケーションにたとえるのならば、読書というコミュニケーションは、コミュニケーションの必然として絶対的に非対称的側面を有しているものの、人はテクストに対してけして届くことがないかも知れずとも対称性を信じるように読まねばならない。当然至極のこととして、このように読書をする読書家とはディレッタンティズムの罠に陥りかねない。
 もちろん読書とは道楽である。だが青年期においてそれは、求道である。私にとっての読書とはあらかじめそのような道としてしかありえなかった。